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Hope is Your Name

「チュロスだったわ、たしか」
そういった感じの科白からネズナイカは始まっていたのではないか、などと非常に曖昧なのではあるが、しかし、曖昧ながらもたしかにそんな風に記憶しているのだから、仕方ない。ジェームズ・エルロイならばちゃうやろな、たぶんそういうだろう、そんな気がするが。
    それはさておき、ぼくたちがシャルル・ド・ゴール空港に降り立ったのは、6月のある朝のことだった。
シャンゼリゼ通りを手をつなぎながら、♪オーシャンゼリゼを歌うというのが、長年のぼくらの夢だったのだ。たとえオーシャンゼリゼが、元々はロンドンのウォータールー通りを舞台とした歌詞であったものをパリのシャンゼリゼ通りに差し替えたという後日談があったとしても、いいものはいいのだ。
   そのときの相方は、花嫁だがその話はまたの日にゆずるとして、「モナリザ・オーバードライブ」を皆さんは憶えているだろうか。
    実は、ぼくは読んでない。「ニューロマンサー」しか読んではいないのだが、モナリザほどカッコいいタイトルの小説をぼくは知らない。
    タイトルは、やはり作品の顔なのだからとても重要であることは言わずもがなだが、ところで。ぼくが青山くんに出会ったときの衝撃は、サイバーパンクを読んだときと同じくらいの衝撃度を伴っていた。


§1

    現代は、道を歩けばアイドルに出会える、そのくらい誰もがアイドルと自称してはばからない、そんな時代だ。老舗のメガアイドルグループから地下アイドルまで数え挙げたらきりがないほどで、それに加えて商業的ではない自称アイドルも続出しているのだから、日本人は、よほどアイドルが好きらしい。
   青山くんもその例外ではなく、アイドルが好きすぎて自らアイドルになることにしたのかもしれなかった。厳密にいえばアイドルと同じように華やかなステージで歌い踊るわけではない。彼の舞台は、路上だった。
    まだ見たことはないのだが、アコギ一本で、自作の歌を路上で歌っているらしい。
    彼を発見したのは、まったくの偶然としか思われない。彼はグーグルplus、通称ぐぐたすで動画を配信していた。
    そのぐぐたすで、何の気なしにアイドルの書き込みに向けてのコメント欄を読んでいて、たまたま何を思ったのか自分でもわからないのだが、アイドルにコメントしていたある人物のページへと飛んだのだった。アイコンが何かひっかかったのかもしれない。
    するとその人物は音楽が好きらしくyoutubeへのリンクがたくさん貼り付けてあった。自分としてはまるで興味を惹かれることはない、それはいわゆる昭和を代表する歌謡曲ばかりだった。美空ひばりだとか橋幸夫だとか村田英雄とか?
    そのなかに彼自身の動画があって、それを観たのだが何やらどこかのネカフェでゲームをやっているだけの映像だった。それも画面は一切見えず、見えるのは彼の背中だけだった。
     次にまた何か気になって、またアイドルのリンクから彼のところに飛んだのだが、今度は仕事終わりに配信を開始したらしく、公園らしき野外の映像でビール片手に非常にリラックスした感じの配信であり、オーガズムの後の気怠い満足感みたいなアトモスフィアに充たされていた。
     何やら語っていたが、要領を得ずさっぱり内容が頭に入ってこない。しかし、急にスイッチが入ったかのように競馬の話をしはじめたのだった。
   それによると、彼はパドックでよく馬の毛艶なんかをチェックして、これまでも幾度か穴馬を見つけたことがあるらしい。
   そして、その日も彼はいつものようにお尻の筋肉の盛り上がりだとか、毛並みだとか細かいチェックを入れながら、眺めていたらしいのだが、とんでもない穴馬を見つけだしたというのだ。
    その馬を見た瞬間に全身総毛立ったというから、たしかに何やらすごかったらしい。そして、彼はその場で雷に打たれように身体に電流が走り頭の中が真っ白になると、白昼夢を見たのだというのだ。
    それは、その馬が最終コーナーから一気に捲りまくって先頭集団をごぼう抜きにし、トップをかっさらってしまうという、実に生々しい映像だったらしい。
     これはもう一も二もなく、この穴馬に賭けようとは思ったのだが、生来のビンボー癖が有り金全部を突っ込むことにブレーキをかけていたらしい。
    そこで出走ぎりぎりまで考えようと思い、馬券はまだその時点では1枚も買わなかったというのだ。
    それが運命の分かれ道っだ。彼はレース発走予定時刻の10分前に買うつもりでいた。だが、どうやっても馬券を買うことが出来なくなってしまう。
    彼は馬券売り場に向かう最中に突如としてナルコレプシーを発症したのだという。ナルコレプシーは、昼日中突然猛烈な睡魔に襲われ、車の運転中であろうが、或いはHしてる真っ最中であろうが、お構いなく眠りこけてしまうという睡眠障害の病いだ。
    あとでわかったことだが、そのとき彼が有り金全部、穴馬に賭けていたら、配当は600万を超えていたらしい。
     彼は勝ち馬が確実にわかっていたのだが、自分がその予想的中の恩恵に浴することはなかった、というなにやら凄いのだが、凄いだけにシェークスピアも笑ってしまうほどの悲劇だった。
    彼はそれだけ一気に語り終えると、すべてを放擲したようなまさにイッちゃった表情で一点を見つめたまま、動かなくなってしまった。
    それは、なぜか昔のブラウン管TVで見た、放映が終了してしまったときの砂嵐のようなホワイトノイズを思い出させた。
      その思考を停止させるような意味不明なノイズをもう少し我慢して見続けていれば何かとてつもなく素敵な秘密の放送が始まるのではないのか、それゆえにわけのわからないノイズを垂れ流すことによって、人を篩にかけているのではないか、などと思ったものだった。
    件の彼の映像は、ブツリと音を立てるようにして断絶されブラックアウトした。それはまるで、永遠の別れを想わせるようなこれ以上ないほどの外界への完璧な拒絶だった。
    だが、その後にブラックアウトしたその何者も存在しないはずのブランクになんと文字がゆなゆなと浮かび上がってきたのだ。
    そこには、驚くべきことが記されてあった。なんとわけのわからないことに、そこで彼は独り握手会を開催すると告げているのだった。
   これには面食らった。久しぶりに面食らうなどという表現をしたくなる事象にぶちあったことに対して僥倖と思うべきなのか否か。兎にも角にもこのメッセージには、悶絶した。
    まあ、たしかに動画配信を続けることによって、彼にもいくばかりかの固定のファンが存在するであろうことは想像に難くないが、それにしても、である。これは、暴挙といってしまっていいのではないか。
    職業としてやっているならば、物販は、生命線だろうから握手会は多いにありだが、彼はなんらかの仕事に就ているのだろうし、握手だけというのは意味がわからない。それとも、意識の上では彼は既に押しも押されもせぬ立派なアイドルなのだろうか。
    いったいどういう経緯で握手会をしたいなどという考えに至ったのか、そこが是非とも知りたかったが、どうせくだらない理由か、あるいは凡人にはわからない崇高な理由で、いずれにせよ聞いたところでわけがわからないだろうからと、その内忘れてしまった。


§2

    それからいろんなことがいっぺんに起こった。
    勤め先の会社の倒産。給料未払いが4ヶ月ほど続いた。後になって労働基準局より未払い分相当が八掛けで支給されたが、家賃をその間どうやって支払っていたのか、思い出せない。
    入院していた母の死。ある程度は予測はしていたが、いよいよ来るときが来たのだと諦めざるを得なかった。
    いい事は、連続しないような記憶があるが、悪いことは重なってくるような気がする。
   しかし、その時には悪いことのように思われたことも、時が経つと逆にあれがなければ、大変なことになっていた、などということもあるから、一概に良い悪いは判断できない。
    楽天家の自分は結局のところ、すべては自分にとって良い事なのだとする完璧なプラス思考の持ち主だ。
   人を疑い出したらきりがないし、また、過ぎ去ったことをくよくよ考える事も、これからのことを心配し、あれやこれや思い悩む事も、まったくの徒労に過ぎないばかりか、自分の心の鏡を曇らせるだけだ。
    たとえば、肉親との別れであるとか、家族そのもののペットとの別れであるとか、生きていればどうしても避けられない哀しみである「死」というものは、厳然と存在する。
    パイレーツ・オブ・カリビアンのフライング・ダッチマン号船長デイヴィー・ジョーンズの亡霊であるとか、死の領域に属する霊たちは、当たり前の話だが既に死んでいるだけに、生命の喪失という最大の苦しみからは解放されているわけで、そこには死という概念はない。
    だが現実世界に生きる人は、その身を裂かれるような痛みを伴う哀しみを、乗り越えていかなければならない。それが、肉体を有する人というものが、生きるということなのだ。
    

§3
  
   やっとこさ、新しい仕事先を探し出し、なんとか潜り込んだ頃、季節はもう秋めいていた。
   久しぶりにぐぐたすで、例の青山くんのアイコンを見つけ、飛んでみた。かわりなくやっているようで、なによりだが、あの握手会はどうなったのだろうか。
    ログを見るほどの興味はないが、気になることは気になる。と、そこで告知を見つけた。またぞろ独り握手会をやるらしい。場所は、吉祥寺と記されてあった。
   そして、なぜか行く気になっている自分をそこに発見するまでに、時間はそれほどかからなかった。



§4

   吉祥寺は、学生の頃よく遊びに来たので馴染みがあった。
    久しぶりに恵比寿ダコの前を通ったら、案の定食べたくなったが、とりあえずパスして大中を見に行った。店内は相変わらず、わけのわからないもので溢れ返っていた。ずっと読み方がわからなかったが、ダイチューが正しいらしい。今さら知ってもというのはあるが、タイチュンだとばかり思っていた。そういえば、金大中キム・デジュンという人物もいたっけ。
    吉祥寺は、マニアックな小さな店が点在しているので、一日中いても飽きない。今でも井の頭公園は、カップルが行くと別れるという都市伝説がまことしやかに囁かれているのだろうか。
     アーケードの終わりのモスで、お昼を食べてから、ディスクユニオンをちょい冷やかし、握手会会場へと向かった。
     場所は、東急デパートの2階に併設されている広めのバルコニーみたいな休憩場所だった。
     がらんとしたスペースには、ところどころにウッドの頑丈そうなテーブルと椅子が設えてあった。
    遠目ではっきりとは確認できないが、動画の彼らしき人物が、隅の一角にあるテーブルにひとり陣取っていた。だだっ広いスペースには、彼しかいないので、まちがいなく彼が青山くんだろう。
   まだ誰も握手に現われた様子はない。というか、誰も来ないことを自分は確かめに来たのではないのかと思っている。はっきり言って自分でも自分のこの行動に何の目的があるのかが、よくわからないのだ。
    ほら、やっぱり誰も来なかっただろ? と、胸を撫で下ろし安心したいのか。誰も来るわけねーだろと、せせら嗤い意地悪な気持ちを満足させたいのか。ほんとうのところ、よくわからない。
    暇で仕方ないので、持って来た文庫本でも読もうと思ったが、まるっきり頭に入ってこない。なんだろう、この感覚。なにかざわざわと胸騒ぎがするような、不思議な感覚がする。
    彼はどうなのかと様子を窺ってみると、焦るでもなく、イラつくでもなく眠っているのか、泰然と瞑目したまま静かに座っている。
    景気づけに、なにか聴こうかとイヤホンで、いろいろ聴きはじめた。やがて「エキセントリック」を聴きながら俄かに心地よくなり、メンバーがローファーを手に持って振るあたりで、眠りに落ちた...らしい。
    自分もナルコレプシーくさいと思いつつ、スマホを見るとすでにここに来てから4時間近く経過していた。
    やはり誰も来ない。居眠りしていた間にも来てはいないだろう。いったい彼は誰も来ない握手を何部までやるつもりなのか。
     そして、あたりに照明が灯りはじめた頃、ぼくは聞いた。それは、外階段を上がってくるヒールの音だ。  見るとその女性は、女優帽を目深に被り、サングラスにマスクをしていた。そして、ぼくのそばを通り抜けていくと、彼のいる方へとまっすぐに向かっていく。
   どこか見覚えのある風貌だった。なぜか、動悸がする。動悸がとまらない。彼が、立ちあがった。テーブルを挟んで彼女と対峙すると、何やら話しはじめた。遠すぎて何も聞こえない。
   彼女は、女優帽をテーブルに置き、座って話をしはじめた。ぼくは、思わず駆け出していた。反対側の外階段から降りるただの客のふりをして、通り過ぎてから、ふたりのテーブルを振り返りざま、ちらりと盗み見る。
    思わず声を上げそうになった。マスクとサングラスを外した素顔のままの美しい彼女がそこにいた。
    それは、今をときめく坂道シリーズの、あの人に他ならなかった。


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nuzzle into the side of your neck 鼻面をきみの首すじにすりつける [R18]

nuzzle into the side of your neck 鼻面をきみの首すじにすりつける



⌘性的な表現を含んでいます。お子さまと性的な表現に嫌悪を感じる方はスルーなさってください!




 はじめは、ほんの遊びのつもりで2人が会話している様子を烈しく妄想して小説に書いた。それがそもそものはじまりだった。

    なぜきみのことが気になるのか、そんなことはぼくにはまったくわからないのだが、きみのことを小説に書いてから、そんな風になってしまったのは、たしかなことのようだった。

    そして、さらに確かなことは、きみへのこの想いは、奇形児のように異形で哀しみに溢れているのだった。

    たとえば、ぼくの想いがきみに伝わり……そのことをぼくが望んでいるのかすらわからないのだが……ぼくときみがリアルで実際に会うことになっても、ぼくはきみに恋人になってほしいとは思わないし、別にセフレになってほしいわけでもなく、じゃあ、ただの茶飲み友達かといえば、まったくそんなこともなく、ぼくはむろん、会ったその日にきみとHするだろうし、iPhoneできみのあられもない肢体をガンガンに撮りまくるだろうとは思うのだが、それは、やはり一回限りのことで、二度とぼくらは会うこともないと思う。

 ただナンパみたいに、やりたいだけなのか、といえばそんなこともなく、うまくは言えないのだが、ぼくはきみの身体を抱かない限りは、収まりがつかない、そんな気がするのだ。

    実に下卑たいいかたをすれば、きみを思っていったん痛いほど勃起してしまったぼくの陰茎は、きみの膣腔に入らないことには、収まりがつかない、そう表現をしても大きく誤ってはいないかもしれない。

 きみのことが好きなぼくが、きみのことを抱きたくなるのは、当然すぎるほど当然だろうが、なぜかきみとは、まさにドロドロと表現するのが相応しい関係となってしまうことが、今からでも容易に想像できるので、ぼくはきみと二度三度と逢瀬を重ねることは決してしてはいけないと思っている。

    だから、いちばんの得策は、きみとリアルで会わないという、ごく単純でシンプルなものなのだが、それが相当難易度が高いのだ。

 きみは、ぶっちゃけ、とっても弱い人だ。まるできみの心臓は、ガラスで出来ているのではないか、としばしば思うことがある。だから、傷つけないようにあまり接触してはならないのだが、きみの名前を見つけると、どうしたって、ちょっかいを出したくなってしまうのだ。



 さて、ここで前回の「きみ」について少し書いてみたい。前回の「きみ」は、むろんきみではなく、まったくの別人ではあるのだが、ぼくと会う際の参考程度に考えてくれたなら幸いだ。

 ぼくらは、「ラ・パロマ」のリバイバル上映を観て、映画館を出た時点で、すでに険悪な感じになっていた。

 「ラ・パロマ」は、とても良かったのだが、きみが好きだといった別な監督を、ぼくが、めちゃくちゃにけなしてしまったからだった。

 金曜日の喧騒の波間に海月のようにたゆたいながら、ぼくは、腹のなかにむらむらと黒雲が湧き上がってくるのが、わかった。どうしようもないくらいにきみのことが憎々しくて、きみを傷つけてやりたいという、紛れもない真実の声をぼくは聞いた。

 なにかこうきみをやっつけてやりたくて、いじめてやりたくて仕方なかった。がむしゃらに道玄坂を歩いて、ヤマハが左に見えた辺りで横道に入り、坂を上ってラブホ街に紛れ込むと、まだ灯りの点ったばかりのラブホに、きみを強引に連れ込んだのだ。

 有無を言わさないぼくの、固い決心の現れた瞳を見たからか、意外にもきみは、抵抗しなかった。肩透かしをくらったような感じのぼくは、さらにカッと頭に血がのぼった。

 泣き叫ぶまではいかないにしても、嫌悪感丸出しで抵抗してほしかったのだ。その拒絶を、絶対の拒絶で、拒絶してやりたかったのに。

 しかし。

 こういった流れでありながら、いざというときになって、肝心なものが勃たないということが往々にしてあるのだから、人生は面白い。

 男は、それほどにデリケートな生き物なのだ。

 だが、残念ながら、ぼくは、それほど繊細ではなかったようだ。

 冷蔵庫に、安物のワインがあったので、ぼくらは飲んだ。安物でも、キンキンに冷えた白ワインは、それなりにうまかった。

 葉月。そう、そのときの「きみ」の名は、葉月といった。

   その葉月を強引にラブホに連れ込んでしまったにもかからわず、もしかしたなら勃たないかもしれないという恐怖と、そんなことに恐怖している自分が腹立たしくて仕方なく、安物のワインをがぶ飲みしてしまったのだった。

    フェリーニの「甘い生活」でマルチェロ・マストロヤンニ演ずるところの主人公の父親が、いざ若い女性と一戦まじえようとした際に、肝心なものが反応しなかったという、哀しいエピソードを思い出していた。



     明け方近く、ぼくは阿鼻叫喚のような女の声で泥のような眠りからふと目覚めた。壁を伝わって女たちの悦びとも哀しみともつかぬ声が、地の底から這い上がってくるように聞こえてくるのだった。ぼくは、この女たちの剥き出しの本物の声にぞくりとした。

 葉月は、ぼくに背中を向けて眠っていた。ぼくは、その背中にぴたりと抱きつき、脚も葉月のようにくの字に曲げると、目覚めたときからはちきれんばかりにきつく勃起していたものが、どうしてもお尻にあたってしまう。そして、もう我慢できなくなって、下穿きをめくってぬるぬると突き挿していった。

 葉月は、うーとかあーとか何か言いながらも、まだ夢の中のようで、ぼくは、葉月の名を繰り返し囁きつつ、寄せては返す波のようにゆっくりと腰を使いながら、夢見心地で、再び奈落の底へと堕ちていった。






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インフラレッドの誘惑

ドブに捨てたくなるような、変わり映えのしない毎日であるからこそ、現実を超えた変化に富むサイケデリックでエキセントリックな美しい幻に、憧れる。
 しかし、幻は、どこまでいっても幻であり、まやかしであるわけで、地平線まで果てしなくつづくかに思われる灰色の壁伝いに出口を求めて歩く、みたいな砂を噛むような味気ない日々こそが、実は、輝かしい栄光へのショートカットであったりする。
 ま、そんな風に考えないとやっていけないってところもあるんですが、白日夢のような赤外線写真を見ると、なぜか、たぎるような真夏の日を思い浮かべてしまうのです。








「じゃ、エアコンのスイッチ、忘れずに切ってってよ」
 ぼくは、佳奈にそういって家を出た。彼女は、確かに学校の成績は飛び抜けていいのだが、どうも粗忽なところがあって、よくトイレの電気をつけっぱで出かけてしまったりする。
 それに、怖いくらい手先が不器用なところがあった。
 共に音楽が好きで、共有しているデスクトップで作業しながら、それぞれ好きな音楽を聴いているわけなのだが、彼女が使った後では、かならずイヤホンが複雑に絡み合っている。その支離滅裂な絡まり具合いは、破廉恥なほどで、どうしたらこんなに絡まってしまうのだろうかと思うほどの複雑系な、ややこしさを呈しているのだ。
 外は、うだるような暑さだった。
 キャップを被ってくるべきなのは百も承知なのだが、髪が伸びすぎていて、キャップを被ると、まるで漫画のキャラみたいだと佳奈にいわれたのだった。
 もともとキャップやら、ハットやらの被り物は、頭をしめつけられるようで嫌いなたちだったが、殊にキャップは恐ろしいほど似合わなかった。理由は、頭がデカすぎるからだろう。
 それはともかく、チノパンの裾をロールアップして、雪駄をつっかけてきたぼくは、思わずその快適さに笑みをこぼしてしまう。そうなのだ。このクソ暑い真夏に、毎日毎日スーツに革靴なんて尋常ではない。
 雪駄は、浅草に行ったときに買ったもので、サイズで悩んでいたら、店主が雪駄の履き方を、レクチャーしてくれた。
 雪駄は、きっちり履くようなものではなく、踵を出して履くのが、粋なのだ。つまり、そもそも雪駄は、ざりざりずりずり踵を引き摺りながら履くものというわけだ。ぼくは元来、靴を引き摺るのが癖なので、引き摺るのが当たり前、いや、引き摺らなければいけない、粋ではないという雪駄こそが、ぼくにはぴったりな履き物だった。
 ずるずると音を立てて蕎麦を食べることを粋とすることが、欧米人には理解しがたいことと同様に、履き物を引き摺り、音を立てながら歩くというのも、理解できないことだろう。「粋」は、奥深いのだ。


 息をするのも辛いほどの熱気のなか、四分ほどプラットフォームでフリーズ(気絶)し、入線してきた電車に乗り込んだ。
 二駅乗れば、おかじゅうだった。
 めざすは、千円のカット屋さんだ。以前カットしてもらったのはいつだったのかすら憶えがない。それほどに遡らなければならない過去のエピソードというわけだ。
 階段を駆け上がって入った店内には、お盆のせいでもあるからか、女の子の理容師さんが一人もいないようだった。
 ともあれ、受付を済ませ、名前を呼ばれたぼくは、長身な若い男の子のセンスに、すべてを委ねるしかすべはなかった。
 美容整形するわけではないのだから大袈裟かもしれないが、ヘアスタイルで、人の受ける印象は、かなり変わるものだからだ。佳奈は、坊主にすればいい、なんていってくれたっけ。冗談じゃない。お前が坊主にしろよ。
 肩まで髪を伸ばした、まるで麻原●●みたいなヒッピースタイルの長髪男は、叩けば文明開化の音がする、みたいなすっきりしたザンギリ頭となって、今度は、図書館へと向う。
 途中で、パチンコ屋さんにわざわざ入って、対角線上にある違う出入り口に向う。入ったのは、涼みたいのと、物珍しいのとからだけであり、あの騒音に耐えろというのは、ぼくにとっては拷問に近いものがある。
 そして、また寄り道。家電の量販店に突入する。
 徘徊老人よろしくデジタルの七色に輝く海を病葉のように彷徨しているうちに、激安デスクトップに座礁した。
 ネットに繋いであったので、なんとなく投稿サイトを検索し、開く。
 なんと、トップには福岡さんのPNが踊っていて、うれしくなる。と同時に、ぼくもなにか書かなければと突発的に思い立った。
 ぼくは、急いで家電の森から抜け出して、隣接する図書館に飛び込んだ。
 別段、図書館に入ったからといって小説が書けるわけもないのだけれど、パチンコ店にいるよりは、いくらか書けそうな気もするのだ。
 ところで。
 書くとはいっても、ぼくは筆記用具など一切持っていないので、頭のなかに浮かんだフレーズをiphoneに打ち込んでゆくだけだ。だから、いうなれば歩きながら書けるわけだ。
 図書館の入り口には、節電のため、平日の一時から四時まで閉館する旨を伝える紙が貼り出されていた。
 ゲートを抜け、なにをどんな風に書こうかと、具体的に悩みはじめる。
 とりあえずは、なにかとっかかりになるような、本を物色することにする。
 たとえば、バロウズであるとか、バーセルミであるとか、シオドア・スタージョンだとか、電気羊の人であるとか、クライブ・バーガー、ガルシア・マルケスといった人たちを想い浮かべる。
 でも、結局は気づくとコミックなんかを読み耽っていたりするのだけれども、満席だった席が、奇跡的に空くタイミングに出くわして、いよいよ座ってiphoneに打ち込みはじめた。

 古びた巨大な倉庫のような、それでいて近未来的な内装は、見ているだけで鼻がむずむずしてくるようで、なぜか気恥ずかしいのだ。ニセモノの臭いが、ぷんぷんする。
 しかし、まるであのゲルニカを想起させるような馬鹿でかいこの絵画は、どうやらホンモノらしい。
 ガジュマルのような脚をもった巨大な雲が、澄みきった青空に蜘蛛の巣状に広がっていた。
 隅っこの方には、太っちょな、それでいてみすぼらしい怪鳥が一羽、死んだような眼をして、大木の枝に逆さにぶらさがっている。翼らしきものは、確かにあった。それも、玉虫色に輝く美しい翼が。しかし、どうみても、ペンギンのそれのように退化していて、明らかに飛べそうになかった。
 チョウザメの菱形の鱗みたいな木肌を、がっしりと掴んだその鷲のような強靭な爪を見ていると、以前どこかの干潟でみたアオサギの佇まいを想い出した。
 冬の間、アオサギは、羽毛に覆われていないその脚を片方だけ出して、一本脚で立っている。両脚を晒すよりも保温効果が高いからだ。
 ヒトもいる。
 京都の陶工、あの長次郎の大黒を使って誰かが、うどんを啜っていた。その横顔は、ちょっとアルトゥール・ベネデッティ・ミケランジェリに似ていなくもない。
 しかし、なぜまた長次郎の大黒とわかったかといえば、大黒に金で、そうエンボスされていたからだ。
 その傍には、赤土がまあるくもりあげられ、たおやかに等高線が走る細密な地図のようなものが描かれた土饅頭がある。
 そして、ウラン化した原子炉自体が、放射能を放出するように、土饅頭からは、なにやら妖気がただよってくるような感じすらするのだった。
「このままでは、あと一年ほどで色が完全に褪せてしまうでしょう」
 そういう学芸員だというやさ男の言葉を聞きながら、ぼくは、集中力を高めてゆくとともに、絵のなかに吸い込まれていく自分を強く想像した。
 ぼくが、むりやり入るのではなく、あちらから乞われて入ってしまうというビジョン。それが、コツといえばコツなのかもしれなかった。
 ただしかし、そのコンセントレーションを邪魔する情報が、脳裏をかけめぐっていた。それは、さっきまで読んでいたカメラ雑誌のある記事である。
 それによると、赤外線フィルムを用いて夜の公園のカップルたちの痴態と、その野外セックスを覗くいわゆるデバガメたちを撮影した一連の写真が、「美しい」と海外の好事家やアーティストに高く評価されているらしいのだが、その理由がぼくには、よくわからないからだった。
 赤外線フィルムは、いわゆるモノクロにはない、なんといえばいいだろうか、「ウッド効果」に見られるようなある種透明感みたいなものがあり、臓腑であろうが、性器そのもののクローズアップであろうが、それらのグロテスクな毒を無効にしてしまうような独特な軽いマチエールがあって、被写体の猥褻で下卑たアトモスフィアをうまく拭い去り、非現実的でありつつも、リアルを確かに現前させているその写真の……

 というようなことを書きながら、ぼくは、高校一年生くらいの男の子に意地悪しているような気分になっていた。
 というのも、筆記用具を一切持っていずに、スマホだけを眺めるただの暇な「おさーん」と彼は、読んだのだろう。彼のその読みは、あながち外れてはいない。なにせ、周りは、机いっぱいに参考書やら、ラップトップ、ノートを広げ、しゃかりきになって勉強しているからである。
 方や、なにやら洒脱を通り越して、自堕落で退廃的な南洋の島の腐りかけのパイナップルみたいな、甘くふしだらな薫りを放つアナーキーなおっさんなのだから、誰が見てもしばらくすれば席を立つだろうと思うのが当然かもしれない。
 そんなわけで、一刻も早く勉強に没頭したい彼は、ぼくに白羽の矢を立てたというわけだ。
 ぼくの座る席のすぐそばにある書架から彼は、動こうとはしない。
 しかし、こういう流れになってくると皮肉なもので、さあ、どうぞ、こちらにおすわりください。とは、いいにくくなるのだ。いや、むしろ、逆に、是が非でも君には、席を譲りたくない、とすらぼくは思ったりする。なんていやなやつなんだろうと、自分でも思った。
 しかし、ヒトの心は皮肉な方へと動くらしい。
 図書館での執筆の当初の予定を軽く三十分くらいオーバーした頃、根尽きた少年は、いや、待ちくたびれた少年は、どこかにいってしまった。
 そして、ぼくもやっと重い神輿をあげることにした。
 ぼくは、まるで夜逃げするみたいに静かに席を立つと、こそ泥のようにするすると、図書館からずらかった。
 ぼくは、こうやって一日一日をドブに捨てていくのだ。


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ヒューマン・エラー

以前にも東京テレポートの駅前で、声をかけられたことがあった。

アジア系の女性。たぶんフィリピーナではない。彼女は何かプレートのようなものを持っていて、それを見せられた。

もうはっきりとは憶えていないが、何かを買ってくれであるとか、或いは、泊まるところがないみたいな流れだったような?

とにかく記憶していたいような出来事ではなかったため、早々に忘れてしまったのだと思う。

そして。
今回もターゲットをlock-onしたのだろう彼女は、案の定するすると俺に近づいてきた。

「アノ、スイマセン」

サバンナで獲物を見つけた彼女のとっておきの甘い声だったのかもしれない。

しかし俺は、完璧に無視した。若い女が、バーコードゲーハーなおじさんに、なんの魂胆もなく話かけてくるわけもないのだ。哀しいかな、それが現実というものだろう。

俺は気を取り直して、エスカレーターに乗った。

ムックに遭ったのは、といってもすれ違っただけだが、やはりこのエスカレーターだった。

相棒のガチャピンはいなくて、あちらもひとりだったが、エスカレーターでムックとすれ違うというは、結構うれしい出来事であったし、楽しいサプライズだった。

そんなことを思い出しながら、俺はスマホで麻雀をやりはじめた。スマホの画面を覗き込みながら、改札をすり抜け、もうひとつのエスカレーターに乗る。

重い足取りで、プラットフォームを歩きながら、捨て牌を選び、やはり仕事を辞めるしか方法はないのかなと考えていた。

轟音とともに、電車が思考のなかに滑り込んでくる。

車輌は大崎止まりではないはずなのに、意外にも空いていた。シートに座って麻雀に没頭する。リーチ一発メンタンピン三色ドラドラ。つい最近まで数独も入れてあったが、デリートしてしまった。

しばらくして、なにか居心地が悪いような、今までに味わったことのないような感覚を覚えた。

いったいなんだろうと、手牌から顔をあげ、車輌内を見まわすと、粘つくような視線を感じる気がした。一緒に乗り合わせた乗客の、それも女性たちが俺に熱い視線を送ってくるのだ。

まったくもって青天の霹靂とでもいうのだろうか、生まれてこの方、女性たちにこれほど熱い眼差しを注がれたことはない。

まるでアイドルじゃないか、俺は早くもベッドで甘いつむぎごとを彼女たちの耳元で囁く自分を想像していた。

エロい妄想がとまらない。音が聞こえないラッシュだからこそ、逆に想像力を掻き立てる。 

だめだ。もう我慢できない。次の駅で乗って来た女性客たちが、もしも同じように初対面のはずの俺に濡れた視線を送ってくるようならば、誰でもいい。ラブホに直行しよう。

と、その前に隣りの車輌でも俺は同じようにモテるのか、ちょっと試してみることにした。

しかし、結果はわかってる。やっとみんな俺の良さに気づいてくれたんだね。2枚目じゃないけれど、誠実そうだろ? 

可愛い女性たちに、俺の愛を振りまいてあげなくては。俺は、ひとりだけのものじゃない、みんなのものだからね!

既に、そんな意識すら芽生えている自分が空恐ろしくもあった。

威風堂々と車輌内を移動していく貴公子然とした俺。たまらない。喜びが腹の底から突き上げてくる。

そして。
俺は見た。

何かとんでもない違和感に戦慄を覚えた。りんかい線は、地下鉄であるから、昼なお昏い。そのミラーのような車窓に映り込んだ俺自身が、ちらりと見えた。 

脳内で不意に眩暈を覚えるような猛スピードの映像の巻戻しが開始され、やがて停止すると、ゆっくりと先ほどまでの記憶が再生される。

たぶん、フィリピーナではない若い女性が笑顔で声をかけてくる、そっけなく無視してしまう俺。

そして、ムック。ゆっくりとすれ違うエスカレーター。

ムックは、ひとりだけ。れいの相棒はいない。これか! これが問題なのか!

だから、ムックはひとりだけだったのか!
俺は、その場にくず折れそうになりながら、窓に映る我と我が身に対峙した。 

車輌の窓に映り込んだそいつは、寝ぼけ眼のグリーンの芋虫みたいな着ぐるみを着ていた。


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ルナちゃん!

   ルナちゃんは、自分が太っていることに薄々気付いていました。
今日も幼稚園の一番仲のいいお友達と口喧嘩になった時、「ブタッ!」と言われてしまいました。
   その言葉は、鋭いヤイバとなってルナちゃんの無垢なこころにグサリと突き刺さりました。
   ルナちゃんは、もう二度とブタなんて言われないようにするにはどうしたらいいだろうと、必死に考えました。
   そして、今日から二度とごはんを食べないと固く決心しました。
お菓子もミルクもジュースも、そして…大好きなチョコすらも一切口にしないことにしたのです。
   ルナちゃんちにはショコラという、かわいいミニチュアダックスの仔犬がいて、ルナちゃんの傷ついたこころを癒してくれましたが、ショコラの名を呼ぶたびに、チョコを思い出してしまうのは、とても皮肉なことでした。
   やがてルナちゃんの無謀なダイエットは、効を奏し、ブタと呼ばれなくなりましたが、すぐに幼稚園にも行けなくなりました。
   もうその頃になるとルナちゃんは、食べようと思っても身体が一切食べ物をうけつけなくなっていたのです。
   そう。ルナちゃんは、拒食症になってしまったのです。
   拒食症の数パーセントは飢えのために亡くなるそうです。死には至らない場合でも、成長期の栄養失調はあとあとの障害につながります。
   というわけで、ルナちゃんは、近くの病院に入院することになりました。そこでルナちゃんは、栄養剤を点滴することによってなんとか命を繋いでいましたが、指しゃぶりがとまりませんでした。
もう右手の親指は、しゃぶりすぎたために、ふやけて変形していました。
   お医者さんは、とりあえずいまは生きていくために、栄養剤を点滴で投与しているけれども、これもあまり長くはやっていられないと言うのでした。消化器系自体がじょじょに弱ってしまい機能しなくなる憂いがあるということでした。
   ルナちゃんは、もう見るも無残なほど痩せこけていました。激痩せなんていうものではありません。骨と皮だけで出来た異星人のようでした。
   そして、ある晩のことです。ルナちゃんは完全に死が間近に迫っていることを感じとりました。あ~ぁ、もうすぐ死んじゃうんだ。ルナちゃんは、そう思うとなんかとても透明な気持ちになっていくのがわかりました。
   素直な気持ちになったルナちゃんは、神様にお願いしました。
   神様、ルナが間違っていました。ブタって呼ばれるのは死ぬほど嫌だけれど、死ぬのはもっといやです。もう一度、ごはんが食べれらるようにしてください。
   

   そして、奇跡が起きたのです。
   次の日の朝、ルナちゃんに食欲が戻ってきたのです。ルナちゃんは、食べて食べて食べまくりました。そして、あっという間に超がつくほどリバウンドして以前よりも、もっともっと太ってしまいました。それでも、ルナちゃんは死ぬよりもいいと思いました。
   ルナちゃんは無事退院し、また幼稚園に元気に通いはじめました。幼稚園のみんなも笑顔でルナちゃんを迎えてくれました。
   でも、もう誰もルナちゃんのことをブタと呼ぶ子は、いませんでした。
   やがて、ルナちゃんは大きくなるにつれごく自然に痩せていき、誰もが羨むほどの絶世の美女となるなんて、誰が想像できたでしょう。

   ルナちゃん、よかったね!

   おわり。
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ものすごく柔らかくて、ありえないほどもろい [R18]

※R18です。
お子様と性的表現がお嫌いな方は、どうか読まずにスルーしていただきますよう、お願い申し上げます。

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『ものすごく柔らかくて、ありえないほどもろい』
 スーパーのおばちゃんからの電話を待っていた。
 今朝は、やけに涼しい。いや、昨夜もクーラーなしで眠れたのだから、昨夜から格段に涼しくなったのかもしれない。
 いつもならば、朝からギラギラした殺人光線に炙られ、照り焼きされるチキンのように脂汗を流しているというのに、それがまるで嘘のようだ。
 毎朝、バスを待つ長い列に並び、 身体の底の方から突き上げてくるどす黒い欲望をなんとか誤魔化しながら、表面的にはまるで失神したようにフリーズしていると、やがて頭の中で油蝉が、ジージーと啼きはじめる。衝動を頭から押さえ付け、むりやり封じ込めてしまうと、ウルトラマンのように警告音が発せられるのだ。
 そして、その警告を無視しつづけたならば、やがてそれは、歪みとなって肉体のどこかに、外側ならば湿疹やらデキモノとなって、内側ならば潰瘍やら腫瘍となって現前するのだろう。
 スーパーのおばちゃんが、結構いけるという話をきいたのは、いつのことだったろうか。あるいは、ネットで拾い読んだのかもしれなかった。まあともかく、その話を鵜呑みにしたわけではなかったが、ありえる話だと思った。
 おばちゃんだって、女だもの男に相手にされないよりは、相手にされる方がいいにきまってる。
 スーパーのおばちゃんは、たとえば四十代から五十代とかだろうか。掃除婦のおばちゃんとなると、さらに妙齢となるような気がするが、彼女たちはすでに閉経し、誰にも女として見られないような存在であると、自分では考えているのではないか。
 殊に大和撫子である日本の女性は、多少の良心の呵責やら謂れなき後ろめたさといったものから、性に対してオープンになれないということはあるだろう。
 若い時分には、旺盛な性欲もあり、性交の機会も多いのだが、刺激されることが少なくなるにつれ、なだらかな曲線をともなって右肩下がりになるかに思われる性衝動は、実は熾火のように身体の奥底の芯で、消えることなく燻りつづけている。
 白髪のお婆さんに、女性はいつまで性欲があるのか訊いたところ、お婆さんは、黙して囲炉裏だか七輪だかの灰を掻き混ぜたという有名な話があるけれども、つまり、灰になるまでということで、これはあまりにも作り話めいていて眉唾ものだが、リビドーが、子を産み育てるという女性本能に根ざしているものならば、当然とも言い得るだろう。
 というか。
 スーパーのおばちゃんの話だった。
 熟女好きというわけでもないのだけれども、スーパーのおばちゃんが、結構ヒット率が高いという刷り込みのせいか、若い頃は、かなりの美人だっただろうと推測される、すごくタイプなおばちゃんがレジ打ちをやっているのを見て、だめもとで裏に連絡先を書いたレシートを手渡したのだった。
 手渡した、そのときの感触は、わるくなかった。まんざらでもないという感じだ。いや、勝手にそう思っただけで、ほんとうのところはわからない。あからさまに嫌な顔はしなかっただけにすぎないのかもしれない。
 はじめは、そんなつもりもなかった。ただ気づいたらたまたま彼女のレジの列に並んでいて、順番がくるまでの手持ち無沙汰に彼女の顔を見つめ続けているうちに、ムラムラっとしたのだった。彼女が後ろを振返り隣のレジの若い子になにかいって、また、こちらに向き直ったとき、偶然なのか意識してのことなのか、視線がかち合った。
 その目が、なんとも言えず印象的で忘れられなかった。雄弁になにかを語りかけてきたからだ。もしかしたら、彼女自身でさえも、なにを語っているのかわからなかったかもしれない。が、まちがいなくその目は、なにかを訴えていた。
「私を抱いて光線」を発していた、とかいうのではむろんない。
 おばちゃんで、そんなことをするのは完全な玄人だろうし、どん引きだ。
 ――いや、そんなこともないかもしれない。というのも、ある女性のことをたったいま思い出したからだ。
 その女の人は、国分寺のおばちゃんと呼ばれ、ちょっとした有名人らしかった。
 らしかった、というのは、実物をみたわけでもないし、その当時ツイッターみたいなものがあったわけでもなく、見知ったのは、トイレや中央本線というローカルな電車内にあった落書きだった。
“国分寺のおばちゃんは、やらせてくれる”
 あるいは、(やらせてくれる。国分寺のおばちゃん)
 こんな感じだったが、一度ならば、へえ、なにそれ? で終わってしまうのだろうが、二度三度と度重なると、俄然興味が湧いてきたりする。
 しかし、本当にそんな人物が実在するのか、あまりにも信憑性に乏しいエロ情報は、気づかないくらいほんの少しずつ降り積もってゆく火山灰のような記憶の堆積のなかに埋もれていく。
 そして、一度たりとも思い出されることなく、やがて忘れ去られようとする頃、思い出したように事は起きるのだ。
 奇しくも国分寺のおばちゃんに、遭遇したのである。
 それは、高尾止まりの中央本線に乗っていたときのことだった。シートの端っこに座って、左腕を横の支柱に掛けて本を読んでいた。
 すると、肘のあたりになにか柔らかいものがあたるのである。それもぐりぐりされる感じで。
 見ると、それは小花を散らしたミディアム丈のワンピのヒップなのだった。
 唖然としていると、ゆらゆらと小花が揺れながら離れてゆき、そして、ワンピの主は、くるりとこちらをふりかえった。
 まず、その若作りに驚かされたが、なによりもぼくを引かせたのは、どう? 私とあそばない? といった台詞が聞こえてきそうな、嫣然とした、その微笑みなのだった。
 そこで、瞬時にして記憶を呼び覚まされたというわけではなく、そのことは後になってから気づいたわけなのだが、ああ、これがあの国分寺のおばちゃんなのか。ヤラセてくれる国分寺のおばちゃんは、ほんとうに実在していたのだと、そのことに感動したのだった。
 結局のところ、その若作りのおばさまの誘惑は、空振りに終わってしまうのであるけれども、あの後、おばちゃんは若いツバメをうまく生け捕れたのだろうか。
 今になって思えば、モナリザも真っ青なあの嫣然たる微笑みに、微笑み返しすればよかったかな、などとぼくは想うのだ。
 たぶん、その微笑返しで、暗黙の了解を得た彼女は、すかさずこういったのではないか。
「そのかわり。ラブホ代は、おねがいね」
 もうやる気まんまんの彼女の、そのものズバリな物言いに、彼はしばし呆然としてしまう。
 そのかわり? そのかわりってなんなんだ? なんのかわりなんだよ? などとカマトトぶっているのは、尻込みしているのか、気取っているのか、自分でもよくわからない。ぶっちゃけ、まさかの展開に頭のなかは、真っ白け。
 彼は、ひとまず微笑まれたから、微笑んだだけであり、ただの機械的な反射作用にすぎない。なのに、あの微笑返しは、男と女の意味深なサインとなってしまったようだ。
 あれで、彼女にはスイッチが入ってしまった。もう後戻りはできない。抜き差しする前に、抜き差しならない事態となってしまった、なんていってる場合じゃない。
 とにかく、彼女に恥をかかせないようにしつつ、お断りはできないものだろうか、と彼は笑みを浮かべながら懊悩する。
 五分ほど遅延した電車が高尾に着くと、親子のようなふたりは、向かいのホームで連絡待ちしていた特別快速に駆け落ちするかのように、飛び乗った。
 発車のベルが鳴り、電車が動き出す。
 支柱に掴りながら、彼女は、車窓に流れる景色を眺めていた。
 母親と同じくらいの年齢であろう彼女の横顔を見つめながら、こんな風にして、彼女はいつも若い男をハントしているのだろうと彼は、思う。
 お金を取らないということは、生活のためにやっているわけではなく、また、既に自分には商品価値などないと思っているからだろうか。というか、彼女は、ほんとうに純粋に若い男の子の肉体に抱かれたいと思っているのではないか。
 そして、それはいけないことでもなんでもなく、ただ彼女はその欲求を隠さずストレートに出しているにすぎないのではないか、そう思った。いや、そう思うことにした。
 ただしかし。
 いまひとつ気がすすまないのだった。
 ぶっちゃけ、彼女がもっとポッチャリしていたならと悔やまれた、とか、母親と同じ年齢ほどの女性とねることに抵抗がある、のではまったくない。
 むしろ、若い子よりも全然いい。ヤバいくらいに。
 でも、いまはそういう気分じゃないんだ、と彼はぼそりと呟く。
 いままさに青春真っ盛りの女の子たちだって、全員がおばさん予備軍なわけだけれども、まさか自分が、おばさんになり、やがてはお婆さんになるなんて想像もできないだろう、想像するだに恐ろしすぎて。
 このごろ改めて思うことだけれども、ほんとうに女性は、美しい。花の命は、短くて、なんていうけれども、しかし。美しいときは、一瞬ではない。青春なんて呼ばれる時期は、ほんとうに夢の如くに過ぎ去っとしまうが、実人生は、それ以降にこそ存在する。老いというなんぴとも抗えない自然の摂理のなかで、つまり限られた生を生きていくからこそ、人は光り輝くと思うのだ。
 そして。
 結局、電話はかかってこなかった。正しくは、まだ、かかってはこない。
 だが、十中八九かかってはこないだろう。
 ただしかし、おばちゃんはあのレシートを揉みくちゃにして、即ゴミ箱に捨てたのではないはずだ。
 きっちりとケータイに名前と番号を登録しただろう。そして、けっしてかけることはないけれども、寂しいときにはいつでも逢えるという、ちょっぴり胸くすぐる安心感を得たのだ。
 それは、実に些細なことだけれども、人生をほんの少しだけ、豊かにしてくれるのではないだろうか。
         ◯
 ヒカルは、そこまで憑かれたように一気に書いた。家の前を泣き叫びながら、自分の窮状を訴えて母親に追いすがるようについてゆく子どもの声が聞こえる。モニタに向っている内に、あたりはとっぷりと暮れていた。カーソルの点滅がどくんどくんという心臓の鼓動のように見える。
 それからヒカルは、やっと一段落したので夕飯を買いにでた。
 二月の乾いた冷たい空気が火照った頬に心地いい。
 商店街に新しく総菜屋さんが出来たので、この頃よく利用していた。
 美味そうな惣菜を見繕い店を出る。
 向かいにある大きなドラッグストアへ入った。
 ティッシュペーパーとか、ワックスとか、ポテチとか籠に放り込む。
 レジ前で女性の後ろに並んだ。
 レジの棚に置かれた女性の買い物を何気に見る。
 ロリエ。
 結構大きなパッケージ。
 三十四とか、書いてある。
 つまり、十七個×二で、三十四個入っているのかな、などと思った。
 その女性はどう見ても中年のおばさま。
 横顔は、長い髪に隠れて見えない。
 わりかしいいケツしている。
 少しそそった。
 そんなことを思いながらヒカルは、視線をヒップから離せなくなっていた。
 隣のレジが空いたので、早々に会計を済ませ、おばさまの後を追う。
 別に何も考えてなどいない。
 敢えて言うならば、ただおばさまのお尻と離れがたかった。
 若いこなら、簡単に一蹴されてしまいそうだけれど、おばさんは優しいから大丈夫などと空想世界に遊ぶ。
 あんまり生活臭はしないから、たぶん独り者だと勝手に予想する。でもたぶん当たっているだろう、そんな気がした。
 生理のおばさま。
 いいかもしんない。
 たっぷり経血を浴びて赤黒く染まる怒張したものをおばさまの中に出し入れする。
 おばさまは、首を左右に振って喘ぎまくる。
 真っ白い尻を高く掲げさせ、後ろから貫いてゆく。
 おばさまは、もう半狂乱。
 髪を振り乱し、腰を使いはじめる。
 おばさまだって、女だもの。
 こいつがほしかったんだよね。
 そんな夢想に耽りながらも、実際にはおばさまをレイプしたいなどとは全く考えていなかった。
 と、ちょっとよそみをした際に、おばさまの姿を見失ってしまったヒカルは、慌ててとっつきの角を左に折れた。すると、暗がりで腕組みをしているおばさまにぶつかりかけた。
「なに? なにか用?」とおばさま。
 ヒカルが面食らっていると、更におばさまはいい募る。
「あなた、さっきお店であたしのお尻見てたでしょ?」
 ヒカルは唖然として二の句が告げない。背中に目があるのか。
「バレバレなんだから。しらばっくれても無駄よ。で、どうすんの?」
「え? どうすんのって?」
「交番に通報してもいいのよ」
「ええ!」ちょっと笑いそうになる。
「だったら、言うこときいて」
 なんだかとんでもない展開になってきたぞとヒカルはドキドキした。
「あたしの身体がほしいんでしょ?」
「ええ、まあ」と社交辞令で返したものの、これだけえげつなく言われるとなんか退くのだったが、おばさまは、マジできれいだった。
「じゃ、ついてきて」
 おばさまは、そう言うが早いかタクシーを拾うと、先に自分が乗り込んだ。
 ヒカルは、開いたままのドアを前にして一瞬躊躇したが、おばさまのすらりと伸びたとは言い難い、肉付きのいい臀部から太腿にかけての豊かなラインを見て、生唾を呑み込むや車中の人となった。
「目黒に行ってください」
 おばさまは、そう言った。
 ヒカルは、あのお城みたいなラブホに行くのかと思った。
 話しのネタに一度は行ってみたいと思っていたから、超ラッキーとか思った。
 だって、お金持ち風なおばさまなんだからこっちがお金出す必要もないし、最高じゃん。
 手を伸ばせば、容易に触れることの出来るおばさまの柔らかい肢体を横目で眺めながら、赤ちゃんみたいになって、おばさまの透き通るように真っ白な大きな乳房を早く吸いたいと思わずにいられなかった。ヒカルは、もともとあまりスレンダーな体型は好みではない。おばさまの適度に脂肪のついた女性らしい柔らかい線が好きだった。
 咲き切ったように広がった、おばさまのお花。そして、豊満な乳房があれば、もうあとはなにもいらなかった。そんなことを考えながら、おばさまとは一言も会話せずとも濃密な時間が流れていった。
 タクシーは、するすると滑るように夜の街をすり抜けてゆき、あっという間に世田谷を抜けて目黒に入ると右手の方向にライトアップされたお城が見えるはずだった。が、行けども行けどもそんなものは見えてこない。
 ラブホ業界も深刻な不況と雑誌で読んだことがある。たぶん、閉鎖してしまったのだろうとヒカルは思った。
 おばさまは、権ノ助坂を上りきる少し手前で、タクシーを停めた。
 降りたところは、お洒落なシティホテルの前だった。
 いつもここを使ってらっしゃるんですか? という問を呑み込みながらおばさまの後につづいて、エレベーターに乗り込んだ。
 ルームナンバーは、六二三。
 白いドアを押し開けて中に入ると、セミダブルベッドが二台入った三十平米くらいのクラシカルな作りの客室だった。とてもシティホテルとは思えないほどの落ち着いた雰囲気に、ヒカルは驚いた。
 さすがは、おばさま。
 ただやるだけの安宿じゃないもんね。
 部屋の奥に縦長の窓が三つ。それぞれに、粋なレースのカーテンがかかっていた。
 その前には、背の高いランプシェードと、アールヌーボー調のかわいい丸テーブルに椅子が二脚。お金をかけてあるのは、ヒカルにもわかった。
 いよいよ、ということでちょっと気まずい沈黙が広がった。けれどもヒカルは、おばさまが丸テーブルにハンドバッグを置いて振り返りざま、あっという間に唇を奪っていた。ただしかし、おばさまは震えているのだった。ふたりの歯が当たり、かちかちと鳴るのが内耳から伝わってくる。まるで男を知らない女性のそれではないかとヒカルは思った。キスだけで、こんなに震えるなんて。さっきまでの世慣れた有閑マダムみたいな雰囲気は消え去り、生娘のようにヒカルの腕の中で震えている。
 気晴らしに若い男の子を摘み食いする、そんな女性ではないらしい。これには、なにか深い事情があるようだと、うすうす気づいたけれど、ヒカルは何もいわない。おばさまの栗毛に染めた美しい髪を両手でもしゃもしゃにしながら、キスをしつづけた。息がとまるほどのながいながいキス。きっと、おばさまの引いたルージュがヒロの頬にも唇にも付いていることだろう。やがてヒカルは、愛おしさがいっぱいになって、思いっきり舌を挿し入れ、おばさまの舌を絡めとりながら唾液を吸い、歯も舐め回し着衣の上からふくよかなおっぱいを揉みしだいた。
 おばさまの声は、もう言葉にならない。くぐもった母音系の音を発するばかり。
 ヒカルも完全に頭の中は真っ白だ。
 もう我慢出来ない。
 そのまま、くず折れるようにして膝をつき、おばさまの穿いている黒のレギパンをがむしゃらに脱がそうとした。
 すると、おばさまは、初めて抵抗した。
「だめ。今、生理なの。きれいにしてからじゃないといや」
 そんな殺生な……。
 ヒカルは、溜息をひとつついて天を仰いだ。
 そして。 
 ヒカルが、おばさまのぎこちないテクニックに陥落し、思いっきりおばさまのお口のなかに命を迸らせると、おばさまはヒカルを残してバスルームに消えてしまった。
 ヒカルは、おばさまと片時でも離れるのが辛かったけれど、女性の身だしなみに否やは唱えなかった。
 おばさまは、ヒカルに身体の線を見られるのが、いやだと言ったのだ。
 ぜんぜん、そんなことはないのにやはりそこは女性のこと、気になるのだろう。
 ヒカルは、ここ暫く経験したことのない凄まじいほどの射精感に半ば放心していた。
 やはり、おばさまは最高だった。
 やがて、虚脱感から開放されると不意に悪戯心が芽生え、ちょっとバスルームを覗いてやれと思った。
 怒るだろうけれど構うもんかと思った。
 だって、おばさまは優しいし……。
 ヒカルは、一気にマッパになって、バスルームに突撃した!
「キャー! ばかー! だめって、言ったでしょう」その声は怒気を孕んでいる。
 ヒカルは、そんなこと言われてもぜんぜんお構いなし。
「いいじゃん、いいじゃん。これがほんとの裸の付き合いってね」
「もう!」といって、おばさまはヒカルに水にしたシャワーを浴びせた。
「頭、冷やしなさい」
「ひゃああ」と逃げ惑うヒカル。
 豪華な部屋だけあって、バスルームも結構広くバスタブにヒカルもおばさまと一緒に浸かった。
 磨き上げたばかりの抜けるように白い肌。匂い立つ大人の女性の色香に、ヒカルはくらくらした。殊に、髪が濡れないようにアップにしてあるうなじが、そそりまくった。
 ヒカルは、ゆっくりおばさまの後ろに廻って、豊満この上ないおっぱいを楽しみながら、うなじにキスした。
 これ以上の幸せはないと思えるほどに、充分に満ち足りた気持ちになった。
 温かい湯のなかのおばさまの大きなおっぱいは、つるつるとしているのに吸い付いてくるような、たとえようもない質感があった。
 うなじから、首、肩と舌を這わせ、おばさまの可愛く尖った頤も舐めて、後ろから再び唇を奪った。
「あーだめ。好きになっちゃいそう」
 おばさまは、図らずもそう言葉を洩らした。
 キスをしたらまたぞろ、その気になったヒカルは、甘えるようにいった。
「ねぇ、いい?」
「だめー!」
 おばさまは、そういいながらヒカルを振りかえり、アッカンベーをしてみせた。
 ヒカルは、その仕種に思わず可愛いと思って、まるで恋人にするかのようにおばさまを後ろから抱きかかえた。
 おばさまにもその思いが伝わらない筈もない、劣情したのではない愛がそこにはあった。
 ヒカルもおばさまもフリーズしたようにバスタブの中で動かなかった。
 しかし、やがておばさまの柔らかい身体が小刻みに震えはじめた。
 ヒカルは、怪訝に思いおばさまの顔を覗き込むようにした。
 おばさまは、顔を背けながら嗚咽していた。
 湯面におばさまの涙がひとしずく、ひとしずく落ちてゆく。
「ごめんなさい。おれ、なにか悪いこと言いました?」
 おばさまは、かぶりを振る。
 そして、ヒカルに向き直り、泣きながら「ねぇ、キスして」とだけいった。
 バスから上がるとおばさまは、打って変ってはしゃぎだした。
 何か、開き直った感じがしたけれど、ヒカルの方は、逆に意気消沈してしまっていたので敢えてはしゃいで自分を鼓舞させようとしてくれているのだろうと思った。
 けれども、そこは若いヒカル。
 ベッドの上でマッパのおばさまと抱き合えば、ナーバスな気持ちなんてすぐ吹っ飛んでしまう。
 そして、ふたりはひとつになった。揺籃のなかでゆるゆると夢を食む赤子のように、ヒカルは自然に目を瞑り夢のなかを彷徨っていった。おばさまのきれいな巻き毛がさらさらと揺れているのがわかる。
 永遠にこのときが終わらなければいいのに、そうヒカルは思った。
 だがやがて、くんずほぐれつしている内に、ひとかけらの快楽さえも逃さないように夢中になっているおばさまの、その牝そのものの生態を見てしまったようで、ヒカルは不意に醒めていく自分を感じた。そして、なにやらサディスティックな気持ちになった。
 本能のまま快感をむさぼり喰らう牝豚におばさまが見えた。
 すると、自分でもわけがわからぬまま、おばさまの首を後ろから絞めていた。
 おばさまは、少し咳き込んだものの、動きを止めなかった。
 そしてまた、暫くしてヒカルは首を絞めた。
 首を絞めるたびごとにおばさまも一気に締まるのだった。
 更にヒカルは今度は力を強めて、絞めてみた。
 キューッと、おばさまも締まってヒカルを締め付けた。
 たまらないと思いながらも、おばさまの動きがぴたりと止ってしまって、ヒカルは驚いた。
 おばさまは、そのままゆっくりと前かがみに乱れたシーツのなかに倒れていった。
「大丈夫? ねえ!」
 ヒカルは、今更になって自分のやった事の重大さに焦りまくった。
 この女(ひと)を、この手で殺してしまった!!
「ごめんよー、そんなつもりなかったんだよー」
「ねー、なんか言ってくれよー」
 客室にヒカルの途方に暮れた声が木霊する。
 すすり泣きながら、ヒカルは、後ろからおばさまをきつく抱きしめた。
「好きだよ。好きだったんだよー!」
「愛してる。絶対愛してる。だから返事してくれよー」
 すると、おばさまは、今まさに蘇生したようにくるりとヒカルを振り返った。
「今のホント? 絶対、絶対ホント?」
 ヒカルは、泣き笑いだ。
「馬鹿野郎、ざけんなよ! 嫌いだよ、おまえなんか大嫌いだ」
「あぁ。無理しちゃって。聞いたもんね。愛してるって泣きながら言ったもんね」
「うっせーよ」
「ね、じゃ、あなたの気持ちはわかったから、それを態度で示してちょうだい」
 そう言いながら、おばさまはヒカルに抱きついて、キスを求めた。
 ヒカルは、キスをしながらおばさまの頬を伝う涙に気づくと、やっぱ愛してるといったのは、まずかったかな、なんて思った……。
                            
                               ◯
   そこまで書いて、お腹が空いたので何か作ってよと、リビングでワイドショーだかを観ていたカヲルに云いにいった。
 カヲルはもう二十後半になるけれども、なお美しい肢体の持ち主だった。
 ローライズの腰から膝にかけてのラインなんか生唾ものだし……。とにかく脚がとってもきれいだった。
 きのう、カヲルに膝枕してもらい、うとうととまどろみながら、彼女が死んでしまった夢を見た。ぼくは涙を流しながら、カヲルの冷たい頬に頬擦りし、口づけした。
 なんでカヲルが死んでしまったかといえば、別にぼくが私淑するあまりバロウズという作家を真似たわけじゃない。でも、ぼくが殺してしまったみたいな、とりかえしのつかない後悔が烈しく心の中に渦巻いていた。
 バロウズは誤ってピストルで奥さんの頭を打ち抜いてしまった。
 思うにたぶん遊びでロシアンルーレットでもやってたんじゃないだろうか。
 バロウズも大きな十字架を背負って生きていたんだなぁと、改めて思った。
 ぼくにもそんなことができるだろうか、恋人をこの手で殺めてしまったという重い十字架を背負ってなおこれからも何食わぬ顔で、のほほんと生きていけるものだろうか。
 もし仮に……
「ちょっとちょっと膝小僧抱えてさっきから何ぶつぶついってんのよ」
 カヲルの能天気な声にぼくは一瞬たじろいだ。
 カヲルは死んだのだけれども、その遺体はまるで生きているかのように喋ったりケーキを食べたり、お風呂に入ったりする。この信じ難いけれども動かし難い現実をもう一度認識しなおさなければならない。現前こそすべてなのだ。
「ね、なによ。なんなのよ、その目は。人のこと亡霊みたいに見ないでよね」
 そういわれてくだらない妄想を断ち切った。そうだった、腹が空いてたんだっけ。
「ねー、つまんない。どこかいこーよ」
 ぼくは、頷く。
「そうだね。お昼はモスにしよう。じゃ、特急でメェル書くから着替えて待っててね」
 メインのメールボックスを覗いてみると、ちょっと気になるメールが来ていた。
「ブログ凍結のお知らせ」ふざけんじゃないよ。こつこつと作った百のブログが全滅とのこと。笑いがこみあげてくる。怒る気には一切なれない。ただ、へらへら笑いながら担当者を滅多刺しにする自分を空想してみた。
 それから、競作のこと絡みで酒井氏にメェルを書き始めた。羊みたいに。
 あのさ、ベアトリーチェさんの「風来坊」読んだ?
 久々に感想かこうかと思ったけれど、やめときました。
 まず、タイトル。今気づいたことだけど、これだけでもうテーマが絞りきられていないことがよくわかりますが。
 ま、そんなことはどうでもいいんだけど、気になることがあって。
 作品に作者のカラーなり、個性なりが自然に出てくるのは当然なんだけれど、なんていうのかな、彼女は、まあ、キャラは立っているんだけれども、それ以前に作者の貌が見えて仕方ないような気がする。
 だから、ストーリーは異なるのに、何を読んでも同じような。
 ま、気のせいかもしれないんだけど。
 でね、酒井氏はこれどうよってことなんだけれど。
 つまり、自己言及とかしているわけでもないのに、物語の背景に隠れていなければならないはずの作者の貌が、やたら見えてしまうという、件。
 この現象は、なんによるものなのか? 自分もそうなのかと思うと怖い。
 あ、それから、競作の件だけれども……
「ちょっと、いつまでやってんのよ! メールなんて、スマホでやれっつーの」
 カヲルの怒声が矢のように飛んでくる。
「はは。ただいま。ただいま参ります」
        ○
 ぼくらは、のんびり歩きながら、モスへと向った。
 ちょうどお昼時で、席があるかなって心配だったけれど、杞憂にすぎなかった。
 ラッキー!
 カヲルがオーダーにいく。
 ここは以前入ったときにもスティービー・ワンダーがかかっていたな、なんて思いながらトイレへ。
 ちょうどそこらへんで曲がかわり、大好きな『Isn't She Lovely』が流れはじめたにもかかわらず、トイレのなかにはスピーカーが設置されてなくてドアを閉めた途端に音は切断――正しくは遮断だけれども、ブチッと切られたようで――されてしまい、まるで異世界に飛ばされたような感じ。
 席に戻ってみると、空いていた隣のテーブルにはひとりの女性がもう座っていた。
『I Just Called To Say I Love You』だろうか、曲に合わせて唄っている自分。ボクの前には、むろんカヲルがいて涼しげな眼差しでサトにミルクをあげている。
 隣のテーブルの女性に何気なく視線を移すと、なんとノートPCを覗きこんでいる。結構、でかくてそそられる。とにかくメーカーを知りたくて仕方なかった。ぼくは死ぬほどPCが好きなんだ。
 と、ありがたいことに注文の品が運ばれてくると彼女は急いでそれを閉じ、ぼくに近いテーブル側に置いて、ハンバーガーをパクつきはじめた。
 ヤッホー! 確認完了。
 HPだった。やたらでかい。十七インチはありそうだ。
 曲は、『You are the Sunshine of my Life 』
 サトは、ミルクをあまり飲まなかったので、カヲルがライスバーガーのお米を食べさせている。
 とうに食べ終えてしまったぼくは、ペットボトルのミネラルウォーターをちびりちびり。
 で、お隣の彼女は時間に追われていたのか、食べ終わるとやたら急いでトレイをもって席をたった。
 それを横目で窺っていたぼく。
 当然、愛するHPちゃんは、忘れるはずもなくひったくられるようにしてテーブル上からその存在は消え去っていた。
 しかし……
 しかしである。
 彼女は忘れ物をしていった。
 バッグは忘れなかったけれど、どこかのお店で買ったのだろうカワイイ手さげ紙袋。
 こんなのいらねーから、HPおいてけYO! 
 どうしようか? とカヲルに視線を送る。
 するとカヲルがカウンターに忘れ物を届けにいった。
 さてと、お腹もいっぱいになったことだし、雑貨でも見にいくとするか。
 ツクモでちょっとHPのノートのスペックを調べてみる。
 店には置いてないとのことで、ぐぐることにした。
 スマートフォンの検索画面を見ながらふと、モスにたいへんな忘れ物をしてきたことに気づいた。
 サトとカヲル。
 だが、ここに至って、まだなおくだらんゲームをしている自分が虚しかった。
 サト? いったいそれは誰やねん!
 カヲル? そんなやつとっくのとんまに自殺してるやん!
 みよちゃんに寄って駄菓子を買ってから帰ろうと思った。
 誰も待っていないアパートに……。
 夜空を見上げると、メロンのような新月の下で、金星がひときわ輝いていた。
 そしてぼくは、きみのことを想った。
 愛してる、愛してる、いまもまだきみのこと、心底愛してるんだ。  


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ネネ

・‪中目黒にアフリカ食堂というのがあったが、いまはもうない。‬

・「アメリカの鱒釣り」も読み直してみたいが、誰も読まないからか図書館の書架にあったためしはない。

・「アカシア」のクロード・シモンは以前には数冊見かけたが、さすがに読者を選ぶ内容だった。

・自由が丘は、ガオカではない、「おかじゅう」が正しい呼び名。

ブログのネタ用にメモ書きをしたスマホの液晶から視線をあげ、ネネを見た。

ネネは、大きな眸をくりくりさせながら、売れたい! という話をまくし立てている。

デートなんていいもんじゃない。ただ、そう見られても仕方ないかもしれないのだが、どう見たって美女と野獣で、デルモかアイドルとかと、そのジャーマネ、或いは娘とパパとしか見えないだろうと高をくくってはいるのだが、本当のとこどうなんだろう。
いやいや、むろん、自分の中での話だ。こんなに可愛い子に恋しない方がおかしいではないか? 好きじゃないと言えばウソになる。

「知り合いのアイドルの子が、爆発的に売れてるのを目の当たりにして、あー、確かに前から押しも押されもせぬ存在なんだけど、今回のリリイベ観たら、もうたまらず私も、売れたい! と思っちゃって。この感情は、ジェラシーとかそういうんじゃなくて、うー、なんだろう、親に言われるとツラいというのはあって。つまり、両親ももう歳だし、喜ばせてあげたいというのが先ずあって、楽曲だってルックスだって負けてないという自負はあるんだけど、認知度がまったく異なるという現実の厚い壁立ちはだかっていて...」

僕などにそんな話をしたところで、そちらの業界のコネがあるわけじゃなし、意味はないのだけれど、自分の中に溜めておかないで言いたいだけ言って後は、あれ?
あたし今なに話したっけ? みたいな感じでケロっとしているところは、ネネのいいところだし、自分も見習わなければといつも思っている。

窓から大きくのぞく通りには代官山らしいお洒落な若い子たちが、楽しげに会話しながら歩いているのが見える。いよいよ春だ。

「結局のところ、楽曲の良し悪しじゃないんだよ。売れるためにはね、TVに出るか出ないか。事務所の力関係かな? それだけだし、つまり、いいものだけがTVに出るのかと言えば決してそんなこともない。悲しいかな、それが現実。凄くいい楽曲でパフォーマンスもよくても認知度は低いというチームは、ざらにいるね。で、結局資金繰りがつかなくなったりして解散てなる。いいものは必ず認められるようになればいいんだけどね」

ネネは、聞いているのか聞いていないのか、もうこの話題にも飽きたみたいに頬杖をついて、アンニュイな雰囲気を醸し出しながら外を眺めたまま、何も言わない。

僕は、そんな彼女の美しい横顔に胸を搔きむしられる。
そして、溜息をつくようにそっと心の中で語りかける。

ネネ、好きだよ...


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G Song を聴きながら。


 詩作に没頭しながら、最後に彼女にあったときのことが、フラッシュバックした。あのとき以来、ホノルルのれいのトンネルから、全然ジャンプできなくなってしまったのだ。
 私は、あなたで、あなたは、私なのと言われたあとで見た光景。
 ぼくがほんの一瞬、まさに瞬きする間にみたのは、彼女になった自分を眺めている自分だった。
 戸惑いがちに微笑む、ぼくの頭上三十センチのところには、バケモノと表示されたエアタグが、まるで安っぽいラブホの「空室あり」の電飾看板みたいに、中空に貼り付いていた……ゆらゆらと陽炎のようにゆらめく亡者たちの思いの束が、うねり流れていくのを背景にしながら……。
 しかし、「私は、あなたで、あなたは、私なの」というのは、どうも眉唾ではないのだろうか。そうであるならば、たしかに辻褄は合うような気もする。そして、そうでないとしたならば、彼女はいったい誰で、ぼくの前に現われたわけはなんなのかという疑問が残る。
 つまりは、ぼくのなかでエルサルバドルに関連するすべての記憶が、デリートされてしまっているらしいのは、単なる記憶障害ということではなしに、あるいは、二重人格ということを指し示しているのだろうか。
 ブラウスを脱ぐさまを見て、記憶が甦ったのではなく、「ブラウスを脱ぐ」というコードで、人格のスイッチが切り替わるシステムなのかもしれない。
 だから、ぼくの裏側の彼女こそ、ほんとうのエルサルバドルなのか。ということは? ということは? わたしの存在を認めてほしいという、これは、彼女のサインなのだろうか?





†1

 天王洲アイルの夜の回廊で、ぼくはその人にであった。ぼくは、回廊から海みたいな運河を、その夜も眺めていた。夕凪はとうに過ぎさり、鴉の翼のように黒く濡れ光る運河の底では、それがなんなのかわからないが、とてつもなく巨大な何かが、うごめいているような気がした。揺らめく波頭が線香花火のように、そこかしこで爆ぜているのは、きっとそのせいなのだ。
 その人は、横顔しか窺えないけれども、まるであの鏑木清方の描いた美人画から抜け出してきたような美しい女性だった。彼女もまた、ぼくと同様に回廊の端に佇み、ここからは見えない何かを一心に見つめているのだった。
 そうやって、ぼくらは小一時間近く、互いの景色を眺めていた。
 深夜近く雨がぱらぱらと風に舞いはじめる頃になると、にわかに回廊の人通りは増えはじめた。
 しかし、それらはどうやら有象無象の幻影のようだ。
 それが、時間の堆積によるものなのか、あるいは、無作為に抽出された或る日のことなのかわからないが、かつてこの回廊を伝っていったであろう人びとの残像やら、それらの人びとの思いが幾層にも重なり合い、うねっている。
 それは、モノクロームで、スローモーションになったり、像を結ばないほど速くなったかと思うと、不意にストップモーションになったりした。このような流動性を帯びた不規則な動きに対して、ぴたりと静止している彼女だけは、赤いパートカラーで背景から浮き上がり、やはり美人画から抜け出してきたのではないのかという疑惑がいや増した。
 疑惑などというと、おかしいかもしれないが、つまりは、彼女は、ヒトではないかもしれないと疑念を抱いているということなのだ。いや、別段ヒトでなしでも一向に構わない。構わないのだが、そのヒトではないかもしれない、いや、たぶん間違いなくヒトではないであろう彼女を、ぼくはすでに強く意識し、愛してしまっているようなのだった。つまりは、ヒトでなし同士というわけだ。
 愛は惜しみなく奪う、と誰かがいったが、ぼくは、この愛で、ヒトでなしであろう彼女への愛で、いったいなにを奪われるのだろうか。
 それにしても、パートカラーとは……。彼女を見失わないように誰かが気遣ってくれているのだろうか。あるいは、ソーシャルタギングってやつだろうか。タギング? 不意に飛び出してきたそのワードに、自分でも驚いた。すると、パチパチパチと電灯が灯るようにして、さまざまなもののエアタグが、かたはしから表示されていくのだった。
タギングは、いろんな人がいろんな角度から、タグ付けするわけだから、タグの多寡によって人気の度合いの目安にもなるかもしれないのだが、あまりにも多岐にわたるカテゴリのタグを有するターゲットは、あるいは、さらに曖昧さが増すだけなのかもしれない。
 そんなクリスマスみたいに賑やかなタグのツリーのなか、赤く映える彼女にタグはないのかと見てみれば、果たしてタグはあった。それも、ひとつだけ。
 ぼくは、そろそろと歩を運び、彼女に近づいてゆく。いや、じっさいは、回廊の床からちょっとだけ浮かび上がってつつつーと、音もなく彼女の傍まで移動する。
 そして、ぼくは見た。
 彼女につけられたタグを。
 彼女は、どうカテゴライズされているのかを。



†2

「バケモノ」
 タグには、そう記されていた。
 すると、彼女はいきなりぼくをふりかえると、こういった。
「詩人が消えてしまったの。私の大好きな詩人が。ねえ、いっしょに捜してくださらない?」
 ぼくは、応えた。
「ええ、もちろん。で、手掛かりはなにかあるんですか?」
「いえ、なにも。私の大好きな詩人は、自分の作品とともに姿を眩ましてしまったの、跡形もなく」
「そうなんですか。そうなると……ちょっと……」
「もう捜してもむだなのかしら。ていうか、そっとしておいてあげたほうがいいのかしら」
「いや、待ってくださいよ。彼は、たしかに詩人なんですよね?」 
「もちろん。彼は、ほんとうの意味での詩人だったわ。ニセモノばかりのこの世界で」
「だったら、探し出す手立てがありますよ、ひとつだけ」
 ぼくは、彼女の気を惹きたいがために、口からでまかせをいった。実のところ、そんな詩人のことなど知ったこっちゃない。でも、彼女が、それだけ御執心な詩人なのだから、利用しない手はない。すると、ぼくの脳裏にむらむらと黒い謀りのイメジが、湧いてくるのだった。
 ぼくが、そいつの身代わりになってやろう。というか、なりすますわけだが。そうして、彼女の愛を独り占めするんだ。
 その日は、詩人が出入りしていたという投稿サイトを彼女に教えてもらい、ぼくは回廊を後にした。
 
 さっそく、ぼくは、詩人になりすますべく、詩作に耽った。リアルならば無理な話だが、どうせバーチャルなんだから、たとえバケモノでもぜんぜんOK。
 そして、投稿。はじめのうちは、ウソみたいにうまくいった。なんか詩情がかわりましたね、とかいわれても、なんなくかわした。みんなの目は、まちがいなく節穴だった。
 だが、ぼくがニセモノであることに気づいている人物が、少なくともふたりいた。ほんものの詩人と、彼女だ。彼女は、最初からぼくをニセモノだと見抜いていたようだったが、ずっと調子を合わせているふしがあった。わかっていてだまされているふりをしている、そこには、彼女なりの思惑もあるのだろう。
 
 ぼくが、ラッキーだったからかもしれないが、ほしい情報は、チャットでそれとなく聞くだけで、面白いように手に入った。
♪ほら、最近さ、作品ぜんぶ消しちゃったけれど、あの人、名前度忘れたけど、詩の人で人気があった……バスガス爆発さんでしたっけ?
☆ああ、それならエルサルバドルさんでしょ? でも、最近のことじゃないよ。一年くらい前かな。
♪そうそう! エルサルバドルさん。でもなんでまたぜんぶ消しちゃったんだろう?
☆そりゃ、いろいろとあるでしょう。そこには、さまざまなケースがあると思うけど、それまでの作品すべてデリートしちゃった人、知ってるだけでも、ここ二、三ヶ月でふたりいる。
♪マジすか?
 そんな具合いで、ぼくは、彼の詩篇の何篇かを手に入れ、研究すべく保存していた。 
 そして、さらに磨きをかけてエルサルバドルになりすまし、詩を書きつづけた。
 おかしなもんで、彼の詩を真似ながら、ぼくが詩作になれてくると、エルサルバドルの思考が手にとるようにとまではいかないが、多少はわかるようになってきたような気がした。
 と、そこらへんまでは、実にスムーズに物事が運んでいったのだが、その一方でぼく自身は、じょじょに壊れていった。
 自分が壊れていくのを認識しつつ、このままではヤバイと思いながらも、どうにもならなかった。
 具体的にいうと、まあ、人格崩壊とかではなくて、それは言葉の壊れだった。
 ひとそれぞれなのだろうが、ぼくの場合は、先ず「てにをは」が、めちゃくちゃになった。
 ぼくは、まさかと思っていたが、あの話しはほんとうだったのだ。
 それは、詩をマジにやりはじめると、いわゆる言語感覚みたいなものが、一度ぶっ壊れるという、そういう恐ろしい話だった。
 深夜のチャットで、ぼくはそれを聞いた。厳密にいえば、読んだだが。ぼくは、そのとき思いっきりROMっていて、まあ話半分に聞いていた。そんなバカな話あるかよ、という程度には興味があった。参加していた連中も半信半疑であったのではないだろうか。
 これを聞いたときには、百歩譲ってそれがほんとうだとしても、詩作する者すべてがそうなるわけではないだろうと思った。それに、それが起こるのは、ある程度は言語感覚が鋭い人であるにちがいなかった。
 それが、なんということだろう。
 災厄が、ぼく自身にふってきたのである。
 めちゃくちゃになった「てにをは」は、その後なんとか修復できたものの、次には言葉自体がぶっ壊れはじめた。
 言葉の持つ意味というものを無力化し、テクストを破壊してしまうことが、面白くて仕方なかった。これはいったいなんなのだろうという思いはあったものの、やめられなかった。
 そしてある日、ぼくは現実に彼女が存在するかもしれないと思わざるをえない事実に遭遇する。
 


 †3

 その日もなんにも変わり映えしない休日だったので、ぼくはいつもと違う過ごし方をしようと思って、一度も利用したことのない駅で降りてみた。すると駅構内で、コンサートをやっているのか、甘い調べが聞こえてきたので、ハッとして耳をそばだてた。
 ぼくは、いわゆるクラシックが好きというわけでもないのだけれど、近代に入ってからのバルトークや、アルバン・ベルクの弦楽四重奏が好きだった。ぼくは気が遠くなるほどの甘美な旋律に身悶える。音楽には、匂い立つような官能がある。そんなぼくだから自然に音のする方へと足が向いてしまったのだが、生演奏をしているわけではなかった。そこでは、絵画展が催されていて、そのBGMとして薄く構内に流されてというわけだった。ちょっぴりがっかりもしたが、なぜか少し緊張しているのは、慣れていない場所を訪れたせいだろうと、ぼくは思った。
 アマチュア画家の合同展示会と大きな立て看板が出ていて、無料でもあることだし観ていくことにした。モネのような印象派風の風景画や、幻想的でエロチシズムや迷宮性といったものを感じさせる具象の細密画みたいなものもあった。ぼくは、幽玄といったものを感じさせるものが好きだが、ことに海北友松の画に触れたときには、深い感銘を覚えたものだった。 
 そして、ぼくは、その画の前で足をとめたのだ。
 すると音楽が不意に消え、構内のさんざめきも聞こえなくなった。ぼくは背中にじっとりと汗をかいていることに気がついた。それは、なんの変哲もない画だった。さまざまな色を幾重にも塗り重ねて出来たのであろう深い黒の背景に、深紅のワンピースを着た黒髪の女性が、チェアに座り、両手に大事そうになにか赤黒いものを持って、それをを愛おしそうに眺めている絵画だった。
『夜明けのマチエール』たしかそんなタイトルだった。
 一瞥して、ぼくは気がついた。この絵画のモデルとなっている女性こそ、夜の回廊のあの彼女にちがいない。
 知らぬ間に聴覚が戻ってきたようで、「弦楽のためのレクイエム」が鳴っていたのをぼくは、憶えている。
 なんなんだろう、この画は……。と、眼鏡を掛け直し仔細に眺めてみると、彼女が大事そうに持っていたのは、なんと男根であることがわかった。
 わかってみると、ちょっと、というか、かなりひいた。でも、その画から目が離せない。ことにどうしてもソレに視線がいってしまうのをやめられなかった。これは、芸術作品なのであり、低劣なポルノグラフィーといった単に卑猥な、即物的な類いのものではないのだと、自分に言い聞かせ、周りを窺いながらもどうしても視線をペニスから離すことができなくなってしまった自分をどうすればいいのか、ぼくは、わからなくなっていた。
 それほどに、その画が力を秘めているというわけでもなさそうなのに、疑問を解決したいがゆえに一生懸命顔を近づけ、これはなんだろうと観察し、それがペニスだとわかった時の衝撃がずっとぼくを捉えて放さなかった。
 それは、ペニスの張り型といったものではなく、生身のペニスそのものだった。彼女は、その肉の塊を愛おしそうに見つめていた。官能的なアトモスフィアといったものは、皆無だったため、ぼくは完全な無防備だった。そこに、すっと魔物が入り込んできた、そんなことなのかもしれない。
 それほど美しくもない、どこにでもいそうな見知らぬ女性がさりげなく両の掌で持っていたものは、男性のシンボルである勃起したペニスだった、ということならば、これほどの衝撃は受けなかったかもしれない。
 しかし、それはあの彼女なのだ。それに全裸であるのならば、状況は、少し変わっていたかもしれない。こちらもそのつもりで見るからだが、そこで、再びある疑問が生じてきた。
 それは、ペニスが勃起した状態であるということ。ペニスを有する男性が、ある種の興奮により、勃起するのはごく当然な成り行きなのかもしれないが、この絵画には、そのペニスの主たる男性が描かれてはいないのだ。
 ただ単に彼女の両手の中に存在するだけのペニスを、本来のヒトのペニスと同等に見ていいのかわからないが、勃起を保持しているということは、勃起した状態のペニスを切り取ったということとしか理解できない。
 勃起のシステムは、ふだん血液を排出する役目である静脈が、ペニスの根元で締まって血液を止めてしまうかららしい。それは、ペニスが人体の一部としてあるときのことであって、ペニスを根元から切り取ってしまったならば、一気に血液が流れ出し、それもたぶん滝のように流れ出し、空気を抜かれた風船のようにあっというまに萎んでしまうであろうはずなのに、なぜまたこのペニスは勃起を保っているのか。
 彼女は、禍々しいほどに怒張した肉と血の塊を掌で皿を作り、そこに捧げ持つようにして勃起した男性性器のペニスのみがのっていた。画家の見事な筆致から、そこからは、ずっしりとした重量感さえ感得できた。血液がだらだらと流れ出してはいないことから、なんらかの止血が施してあるのだろうと思った。けっして精巧に作りこまれた蝋細工などではないと思った。
 それで、不意に思い出したが、もしかしたらこの止血は、アロンアルファでやったのではないかと思った。実は、アロンアルファは、そういったときの用途のために開発されたのだと、なにかの本で読んだことがあった。正確にいえば、止血のためだけではなく、指などを刃物などで切り落としそうになった際に、くっつける役目も果たしてくれるらしい。歯にも使えるようだ。
 そのことに気がついて、自分で驚いた。そうか、本物の勃起したペニスをゴムなどで縛ってから切り取って、用意しておいたアロンアルファをまんべんなく傷口に塗って止血したのにちがいない。
 そんなことを考えながらも、ぼくはもうずいぶんと前から、自分の身体の異変に気がついていた。膝頭が合わぬほど脚が震えていた。このままでは、ほんとうにまずいと思ってこの画から逃れようとするのだが、なぜか身体が硬直したように動かない。膝を小刻みに震わせながら、ぼくは、その場を動けないのだった。
 しかし、固く目を瞑り、なんとかやっと身を引き剥がすようにして、その絵画から離れ、次の絵画へと視線を移したものの、眸には、なにも映じてはいなかった。ずっと目蓋の裏には、先ほどの画の残像が焼き付いたままなのだ。
 ぼくは、もう他の絵画を見る気を失うとともに、どっと疲れが出てソファにへたり込んでしまった。膝頭が合わぬほど脚が震えているという以外にも歩くのに具合が悪いことが起こっていた。あの画から、離れたら離れたで、今度は、あらぬ妄想が脳裏を駆け巡り、それに抵抗し、自分の肉欲と闘ってほとほと疲れてしまった。
 小一時間ほども、そうして座っていたかもしれない。幾度となくあのペニスが鮮明に蘇り、ぼくは、戦慄を覚えた。彼女が持った鋭利な刃物が煌きながら、自分の怒張したペニスを切断していくさまが、繰り返し繰り返しまざまざと脳裏に浮びあがってくるのだ。
 とにかく、あの絵画から遠くに離れなくては駄目だと本能的に覚ったぼくは、やっとの思いで、いざるようにして表へと出た。
 目が眩むほどの秋の陽光に照らし出されたぼくは、なにか生き返ったような気がした。



†4

 家へともどったぼくは、アクアリウムの熱帯魚たちに餌をあげると、ゆったりと寛ぐために、風呂に入った。身体を洗い清め、バスタブに浸かってはじめて、ホッと安堵の溜息をついた。落ち着きを取り戻し、あの画のことを必死に意識の外へと押し出すようにつとめたが、しばらくしてハッと思った。
 もしかしたら、あのペニスは自分だけに見えていたのかもしれない。そう思った。というのも、周りの人たちも少なくともペニスを持つ女性の画に一様に驚きを禁じえなかっただろうはずなのに、あの絵画を観てざわめくようなことはまったく起こらなかったからだ。立ち止まって、しばらく眺めているような者もいなかった。みな三十秒も眺めないうちに次の画へと移っていった。
 だから、もしかしたらあの画は、観る者の願望によって姿形を変えるのかもしれない。あるいは、観る者、そのものを写す鏡なのかもしれないなどと思った。
 風呂から上がり、鏡のなかの自分を見て、なぜか急に老けたような気がして仕方なかった。このまま年老いていくだけの人生なんて、ほんとうにつまらないと思った。街なかで見かける普通のカップルたちが羨ましくて仕方なかった。もう一度、恋に落ちたかった。死ぬほどの大恋愛をしたかった。でも、バケモノに叶うべきもない。
 年老いた母を見るにつけ、人生ってなんなのだろうと思う。医学的にいうとこの世に生れ落ちたときから、老化がはじまっているということらしい。人生を四季にたとえてみると、誕生して、ハイティーンくらいが春、二十歳から四十歳くらいが夏、四十から六十にかけて秋、そしてそれ以降が冬と大雑把にいうとこんな感じだろうか。
 人生の途上において、青春のときには青春の、壮年のときには壮年の、それぞれ見合った人生観なり世界観を持つのは、やはり身体的なものにかなり影響を受けているのだと思う。だから、いつまでも十代のときのような若々しい身体/容姿であるならば、精神的なものもさほど成長しないと思うし、老いというものを忌み嫌うというのは、ちょっとちがうのではないかと思いはするのだが、誰しもが歳はとりたくないと思い、ことに女性にいたっては、「老い」が、人生最大の敵ということになる。
 人は壮年期ならば壮年期の、老年期ならば老年期ならではの世界観を持つわけであり、それはそれで味わうに足ることだろうが、そんな風にはまだまだ悟りたくはなかった。

 

†5
 
 長い夏がやっと終わりを告げ、金木犀が香りはじめた或る夜、ぼくは、二十四時すぎに回廊に出かけた。
 実は、Googleストリートビューが好きなぼくは、たまたまホノルルを散歩していて、偶然それを発見したのだ。ビューポイントでないところには、PHOTOだけがアップされていているのだが、そのなかの一枚のトンネルの写真にほんの気まぐれで、あのヒト型のカーソル? をドラッグしたところ、世界は一挙に暗転したあと、着いたところは、天王洲アイルの回廊だったというわけだった。
 回廊には、すでに彼女がいて、また暗い運河を眺めていた。
 ぼくも彼女と柱ひとつ隔てたいつもの場所に佇みながら、ぼーっと黒い運河を眺めた。すると、運河の向う岸からだろうか、なにやら祭り囃子の笛のような、華やいだ雰囲気があるが、どこか哀しげな旋律が聞こえてきた。こんな笛の音を、たしか佃大橋の近くで聞いたことがあった。
 あのときは、川面を渡ってくる風に乗って聞こえる笛の音を追って、ふらふらと河川敷を彷徨ったのだ。そぞろ歩きながら、何組もの幸せそうなカップルや、家族連れとすれちがった。そして、ぼくらは同じ時間線を歩みながらも、決して交わることはないのだと思った。
 笛の音に導かれるようにして、やがてぼくは佃大橋のたもと付近にまでやってきた。海がもうすぐそこにあるから、カモメが幾羽も飛び交っていた。そして、ぼくはなにを思ったのか、バッグからパンを取り出して千切り、カモメたちに投げ与えてみたのだった。
 すると、どこにいたのかと思われるほどのカモメたちが何十羽と現われるや、千切ったパンは、一度としてきれいな放物線を描きながら海へと落ちてしまうことなく、すべて彼らの嘴に咥えられていくのだった。
 あのとき、カモメたちは、翼を見事に繰って空中に静止しているかのように見えた。
 
 そして、ぼくはいま、黒い運河を眺めながら記憶喪失のドラマのことを想い出していた。
 それは、元妻が、記憶喪失となった元主人になんとかして失ってしまった記憶を取り戻させようとする物語だった。元妻は、過去の想い出を語りつぎながら、記憶を回復させようと努めるのだが、一向に埒があかなかった。
 ある日、妻は、不意に「もう、若くないし昔とはちがいます」といいながら、元主人の目の前でブラウスを脱ぎはじめる。すると、元主人は、妻の名を思い出し、その名を呼ぶのだった。
 というわけで、この人は、完全に奥さんとして彼女を再認知したわけであって、結果じょじょに記憶を取り戻していくのだが、乳房を見て思い出すのならば、まあ、納得しないでもないが、ブラを着けたままでなぜまた記憶が甦るのかが不思議だった。
 眼前でブラウスを脱ぐという行為に妻に対する強い印象が纏わりついていた、強烈な思い出が付加されていた、ということならば、あり得るかもしれないが、やはりドラマにするのならば、そういったパブロフの犬的な条件反射を喚起するための何らかの伏線を張っておかないと、リアルさは生じてこないと思った。なぜまた、ブラウスを眼前で脱ぐことが、自分の妻という個人を特定させる要因となったのか。
 結局のところ、半裸になったのであるから、半裸になったら見える部位のホクロによって、妻であるという記憶が甦ってきたといいたいのだろうとは、思う。もしくは刺青はありえないとしても、アザのようなものによって、ということなのだろうか。
 しかし、それを具体的に説明はしないのである。
「ああ、このアザは!」であるとか、「この大きなホクロは!」などといった台詞は、いっさいない。
 このように観るものに判断を委ねているようなところが、ちょっとと思ったのだが、どうやら、真実は異なるようなのだ。
 つまり、監督は、男の前で平然と服を脱ぎはじめる女性というものは、妻でしかありえないだろう、ということをいいたいのだと思った。
しかし、それは奇麗事の幻想ではないのか。玄人女も、あるいは奥さん意外の普通の女性でも房事のときには、男の前で平然としながら、衣服を脱ぎはじめるのだから。
 が、監督は、さらにこういうだろう。男の前で平然とブラウスを脱ぎはじめる女性というものは、妻でしかありえない、否、絶対にそうあるべきなのだ、と。
 だが、そういったこうあるべきであるとの個人的な貞操観とリアリティは、相容れないものがあるだろうと思うのだった。
   ただ確かに夫婦の絆とは、斯様に強いものなのである、とぼくも信じたい。
 このシーンの最後のカットは、奥さんの名を思い出した旦那さんに、半裸の奥さんが擦り寄って手をつなぎ、奥さんは嬉しさのあまり、泣き崩れるというカットだった。

「ねえ、あなた、なにぶつぶついってるの? さっきからずっと独り言いってるわよ。自分じゃ、気づいてないでしょ?」と、だしぬけに彼女がいう。
 ぼくは、驚いてしまう。
「え! そうなんですか。ぼくは、キーボード打ってませんよ、ぜんぜん。だとしたら、ちょっと怖くもありますね、これ。思いが、そのまま思考する早さで文字になっていくなんて」
「まあね」
「あなたのこころも、これで読み取れたらいいんですけど。なんて……」
 暫しの沈黙のあと、
「OK、じゃあ、ほんとうのことを教えてあげる」と、彼女は、話しはじめた。
 彼女が、タッチタイプしているのか、思考がそのままテキスト化されているのかは、わからない。
「実は、あなたこそ、私の捜していた詩人なの。わかってる。あなたは、詩人になりすましたつもりでいるんでしょうけど、まさにあなたが、その詩人本人なんだから、誰もあなたを疑ったりしないわよ」
「え! そういわれてもピントこないんですけど。どういうこと? ぼくが、詩人本人? ぼくがほんもののエルサルバドルさん?」
 しかし、ぼくは、エルサルバドルなんて名で、詩を投稿したことなんてないし、そもそも詩作なんてしたこともない。高校の頃なら書いた記憶もあるが。でも、それが真実だとしたならば、自分で、自分になりすましていた、というどうにも笑えない喜劇なのだった。
「でもまたなぜ、あなたはぼくに接触してきたのでしょう? あなた、ぼくを特定してきたのですよね? いったい、あなたの目的はなんなのですか?」
「目的? まだ、わからないの? あなたは、わたしで、私は、あなたなの。私は、もうひとりのあなたなのよ。だから、あなたのいくところには、私もいるってわけ。当たり前の話でしょ? あなたは、とにかく周りに天才だとか囃し立てられて、傲慢になってたのよ。それで詩がだんだん腐ってきたの。慢心が腐臭を放つようになってきたってわけ。もうみていられなかった。だから、すべて消してやったのよ。一からやり直してほしかったの」
 わけがわからなかった。
 どこまでがほんとうで、どこからウソなのか。どこまでがウソで、どこからほんとうなのか。
「そうだ。あなたに聞きたかったことがあるんです。単刀直入に聞いていいでしょうか」
「どうぞ。わたしでわかることなら、なんなりと」
「ありがとうございます。じゃ、とっても不躾な質問で恐縮なんですが……あなたは……どうして……その……」
「バケモノと呼ばれているのか、でしょ?」
「あ、はい」
「それは。みんなと同じではないからよ」 
「ぼくには、まったくフツーに見えますけど?」
「外見ではないの」
「じゃあ、なにが?」
「ほんとうのことしか言わないからじゃないかしら。みんなウソで塗り固めているのよね。ていうか、自分がウソをついているかどうかすら、わからない、ウソをつくことが当たり前だから。そもそも存在の基盤にウソがあるんだろうから、仕方ないけど、その自分のウソに気づかない方が、しあわせなのかもね。なあんて、あたしは思わないのよ。どうせ、いつかは精算しなくちゃならないのなら、早い方がいいでしょ?」
 なにか、うまく受け流されてしまった。というか、わけがわからない。
 あいつは、詩の素養のありそうなやつを見つけると、詩作をガンガンやらさせて、言葉を破壊させ、あげくの果てには、性の虜にして廃人同様にしてしまうらしい。ターゲットは、若い男だけで、女性は歯牙にもかけないようだ。そんな噂が、まことしやかにネット上で囁かれ、あるいは、つぶやかれていた。
 あいつとは、むろん彼女のことだろう。
 たしかに不思議だった。詩人の大ファンである彼女が、一遍の詩も保存してなかったとは。あるいは、ハナからでたらめだったのか。ぼくは、ただ踊らされただけなのかと思った。
 彼女は、ぼくのことを知っていたのか? 
 だから、パートカラーを施したのか?
 あの赤は、化けものの危険度を表わしていたわけではなかったのか。
 そんな詩人など、はじめから存在しなかった?
 チャットでは、彼女の息がかかったやつが、詩人の話題を振るやつ、つまり、ぼくを待ち伏せしていた?
 しかし、なぜ?
 なぜまた、彼女は、そんな手の込んだことをしたのだろう。
「私は、あなたで、あなたは、私なの」とは、なにかの符牒なのか?
 そして……、あの画!
 あれは、いったいなんだろう。
 ぼくと彼女の未来を暗示しているとでもいうのだろうか。
 
 ネットに転がっているエロい動画などを見ると、必ずといっていいほど、先ず男性の屹立したペニスを女性にしゃぶらせるといった映像が執拗に垂れ流されるのだが、あれは、男の幻想にすぎない。
 つまり、男が女を支配しているという幻想。そのありもしない現実をことさら描くことは、女を支配下に置きたいという男の儚い願望の顕われなのだ。支配権を奪い返そうとする世界への働きかけなのであり、女は男の支配下にあるとの刷り込みなのだ。
 鑑みるに、あれほどの無防備なものもないのではないか。いちばん大切な急所を、それも剥き出しで女性に委ねているわけなのだから。
 あの画は、そんなことを示唆しているのではないだろうか。その気にさえなれば、骨のない陰茎など、いとも簡単に食い千切れるはずなのだ。おまえの急所は私が握っているぞという、彼女の意思表示と警告。そんな気がするのだった。
 つまり、当たり前の話だが、彼女があの画から抜け出てきたわけではなく、あの画を見た彼女は、それを示唆するべく容貌を似せて、あの画を利用しただけだろう。
 では、とぼくは考える。
 では、あの彼女というアバターを操っているリアルな人物は誰なのだろうか。
 思い当たる女性は、何人かいる。
 が、そんなことは、思考の遊戯にすぎないだろう。ほんとうのところ、きっと彼女は、さまざまな思いの集合体なのだ。つまりは、彼女は幻なのではないか。「思い」が彼女という幻をつくった。
 それがなんであるのか、ぼくにも説明がつかない。しかし。「思い」というものは、目に見えないだけで相当に怖いものなのだ。いい方に転がれば、素晴らしいものであるにはちがいないのだが。
 その思いの集合体である彼女は、ぼくになにをいいたかったのか。
 たぶん、彼女は、なにかを告げにきたのではないだろうか。

 美人は三日で飽き、ブスは三日でなれるというが、この美人さんにも少し飽きたなあと、夢のなかに彼女が出てきたときにそう思った。
 みんなウソで塗り固めているのよね、と彼女はいうが、ご自分はどうなのだろう。すると、その思いが伝わったのか、ちょっぴり彼女の雰囲気が変わったような気がした。ぼくは、ためしにチェンジとつぶやいてみる。
 すると、案の定、彼女の首から上だけが、すげ変わった。 
 面白いから、チェンジ、チェンジと繰り返すと、次々と顔がすげ変わっていく。
 あーあ、こんな世界はだめだ、だめなんだ。自分の思い通りになる世界なんて。
 すると、フッと彼女の姿が見えなくなった。しかし、消えたのは彼女ではなかった。自分だった。つまり、ぼくが彼女になっていたのだ。
 この彼女と一体化する、みたいなイメージが繰り返しでてくるけれども、繰り返しとは強調なのだから、やはり彼女のいう通り、ぼくと彼女は、一対のものなのだろうか。 
 と、そこは、すでに夜の回廊ではなく、沼地なのか、そこかしこに大きな水溜り状のものがあり、空と雲が、鏡のような水面に映えて、地面に嵌めこまれたステンドグラスのように煌いていた。
 ぼくの傍らには、毛並みのきれいなシルバーの大きなアフガンハウンドが両足をきちんと揃えてすわっていた。たぶん、それはまだ早い朝で、朝靄が谷間からゆっくりと昇ってきながら大気に拡散していくのを、ぼくは眺めた。
 首をめぐらせると、たおやかなカーヴを描きながら幾重にも重なる稜線が幾筋も見えた。それは、まるで墨絵の世界のようで、奥へ奥へと山並みの色合いは淡くなっていく。
 そんな、なんともいえない厳かな眺めに、ぼくは、うっとりと見入ってしまうのだった。
 ふと気づくと、彼女は完全にぼくと乖離して中空にひとり浮かんでいる。
 彼女は、笑っていた。
 それが、じょじょに哄笑へとかわっていく。
 高笑いをあげる彼女の口が、耳元まで裂けたかに見えた。
「じゃあ、真実を教えてあげる。あなたが、あの絵を描いたのよ。あなたは、あの投稿サイトで、ある女性に恋をした。燃え上がるような恋だった。でも、彼女は、不意にあなたの前から姿を消した。あなたはどうしても、リアルで会いたいといい、彼女は、絶対にそれはできないと言い張った、それがそもそもの原因。それでも、あきらめきれなかったあなたは、手をつくしてリアルの彼女の居場所をつきとめた。そして、あなたは、彼女がどうして絶対に会わなかったのかを知った。あなたに、そのときの彼女の絶望の深さが少しでもわかるかしら? そして、彼女は自らの命を絶った。そうよ、あなたが、あなたが、殺したのよ。身勝手なあなたが。それから、あなたも何度も死のうとした。でも、あなたは死ねなかった。だから、記憶障害になった。彼女の記憶をすべて消すために。生きるために。精神の患いが治ったときには、彼女に関連するすべての記憶は消えていた。
 そういうこと。でも、彼女はあなたのことを怨んでなんていないと思うわ。いえ、むしろ応援してる。あなたには、少なからずファンがいたのよ。あなたには、その人たちのためにも詩作をつづけてほしいの。こころを揺さぶるような詩が、あなたには書けるはずなの。だから、絶対に詩をやめないと約束してちょうだい」
 
 

†6
 
 その男は、物言わぬ壁に向かって、日がな一日何事がしゃべりつづけていた。しゃべっているその声は聞こえはするが、何を言っているのか理解しがたかった。言葉の端端しか聞こえてこなかったからだが、ある日、その男に仲間ができた。
 新人のそいつは、その男が詩人か、偉大なる預言者であるとの認識があるらしく、壁に向かって矢継ぎ早に放たれる男の言葉を、必死になって大学ノートにメモっていた。ラジカセにでも録音すりゃ簡単だろうにと思うのだったが、天才の御言葉を筆記することに意義があるのかもしれない。まさに迷コンビといったところだ。
 ぼくは高みの見物よろしく彼らを四階の部屋から眺めているわけなのだが、きょうもまたふたりは律儀に自分たちの仕事をこなしている。そんなふたりを眺めているぼくも相当な暇人なわけなのであり、頬杖をつき、あるいはタバコを燻らせながら、いつもと同じ光景の一部となりきるアンニュイな午後のひとときが、たまらなくいとおしく思えた。
 しかし、ある日を境に彼らは、忽然と消えてしまうのだった。
 ぼくは、ソファに座りオニツカタイガーの虎の顔が大きくプリントされた唐草模様のバッグを開いて、読み止しの文庫本を取り出す。
 ジュリアン・ソレルとレナール婦人の物語。読みながら、向かいのキッチンの窓で矩形に切り取られた清掃工場の巨大な煙突やら、地平線に白く霞む石油コンビナートを目を細めてちらちらと窺い見る。
 海が青いのは、空が青いからだというが、哀しみが滲んでいるような東京の灰色の空は、やっぱり鉛色の街が反射しているからなのだろうか。
 そして、きょうもぼくは、エルサルバドルになりきって、詩作に耽けってゆく。

雨音に風が揺れ 
後れ毛がしんなりと香り立つ頃 
光りの器は罅割れた
鉄の味がするという 
古の昔より言い伝えられてきた
鳥の鎖骨の灰占い 
あるべきところにある性器のよう 
存在とは時間 
大地は揺れ動き 
舞い上がる炎の飛沫 
気付くと眸のなかにあなたはいない 
もっと燃えろ

白い雨が燃え上がる 
光りが笑ってる 
叫んでいる影 
命ある限り 
ああわかるという 
その気持ち 
あるべきところにない器官 
ゼロの行進 
夢を放ちつつ飛翔する
天使の目尻からこぼれおちる涙 

嬲る者と嬲られる者の設定 
鉄の味のする口蓋に
ノウゼンカヅラ 
いったい誰が感ずるのか 
あなたはいない


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夜明けのマチエール

   

   パチパチというキーを叩く音すら、なにか気がひけるような、そんな静謐な時間。
    音を立てないように、さらにしなやかにタッチしていく。ボクシングのパンチもそうではないだろうか。ただの力まかせのパンチは、意外に効かない。
    むろん、パワーがある方が破壊力は増すだろうが、そこに美学はない。それは、ただの暴力にすぎない。
    だが、何を気取ろうがいずれテロルはテロル以外のなにものでもない。



†1


   外はうだるような暑さだ。
   広大な地下ドームの一角にある、メガストアにある紀伊國屋に本を買いに寄ったついでに、隣の喫茶店に入った。
     一気に汗がひいていく。外気との温度差がありすぎて大きな窓は結露しているのではないか。そんな風に思ってしまうくらい店内は冷えていた。
    窓際の席がひとつ空いていた。
   ウェイターだかウェイトレスがオーダーを取りに来たら、真顔で「1時間くらい悩んでもいいですか?」そう言ってみようと決めた。厨房では、ヤバいヤツが来たと大騒ぎになるだろう。
   近ごろは、本屋のなかで飲み食いできるような複合型のサービスを提供する店舗が増えてきているが、自分は利用するつもりはまったくない。
   たとえば、かつて存在していた洲崎パラダイスとかいう赤線に行って女を買ったついでに待合室に置いてあった生鮮食品も買う、みたいなのは願い下げだ。
   窓の向こうでは、壁を垂直に伝い落ちていく流水が涼しげにキラキラと輝いている。
   それは、夜空に瞬く星々のように音が聞こえるわけもないのに、湧き出る泉のごとく淀みない美しい旋律を奏でていた。
   何を考えるとでもなく、その実、頭の片隅では目まぐるしいスピードで思考しているらしいのだが、ただぼうっとしているのが好きなのはたしかだ。
   だが、それにしても遅い。というか、もう来ないのかもしれないと思いだした途端、急に居ても立っても居られなくなった。
   さっきアイツにLINEした、この喫茶店に入ったと同時に。待ってるから、早く来てと。
    アイツのほんとうの名前は知らない。実は顔すらも知らない。きょうこれからはじめて会う、はずだった。


†2


   実のところ、ザッパなんかよりも、ダミ声のキャプテン・ビーフハートが全然好き。デレク・ベイリーよりもキース・ロウの方が断然好きなのは私です。
    これではほとんど自己紹介とはなっていないだろうが、ここで注目してほしいのは、私などのことではなく、「キライ」という言葉を使っていないことを注視してほしい。
   勉強が嫌い、通勤電車が嫌い、政治家が嫌い。そういった嫌いではなく、個人攻撃ともなりかねない言葉の暴力というものが、その言葉を吐いた本人の預かり知らないところで、独り歩きするかもしれない。
   直接ではなくとも、姿が見えないいわゆる風評となってやがては甚大なる被害をもたらすことにもなりかねないのだから、厄介だ。
   とまあ、そんなことを思いつつも、とまれ問題は、アイツだった。ハンドルネームは、ナオキ。ただし、女子かもしれない。その可能性はなきにしもあらず。
   アイツと話すようになったのは、ネットのチャットルームだった。今でもそれがあるかどうかすら知らないが、そこでアイツとすえ吉とオレの3人でよく話をした。そして、幸か不幸か、ある事件に巻き込まれてしまったのだ。
   顔見知りの親しい間柄ならば、LINEでやり取りするのだろうが、見知らぬ者同士が会話するにはチャットルームは、もってこいだった。
   そこには、いろいろな部屋があり、部屋というか、店舗みたいになっていて、バーみたいな
カウンターがあって、入室すると自分のキャラが出現するので、そいつを動かして好きなところに座らせ、あるいは、そのまま立ち話するわけだ。その会話自体も、漫画みたいにふきだしになるのが楽しかった。
    まったく見知らぬ者同士が、チャットするにしても、やはり互いの趣味嗜好がある程度は重なる部分がないと、話は続かない。
    恋人同士の濃密な沈黙ではないのだから、会話がないとつまらない奴で終わってしまうだろうし、気を使って話を合わせたり、話の接ぎ穂を探し続けるのも馬鹿らしい。
   ナオキと末吉は、まったくの初対面ではなく、もちろん顔を見たことはないので、厳密には、初対面ではないとはいえないのだが、ある詩の投稿サイトで知り合いになった。
   まあ、そういった詩とか文学とかのとっかかりがあったし、ジャンルも近しいものがあったので、気が合い、文学からアイドルまでさまざまな、あることないことをくっちゃべっていた。
   で、そうなると一度くらいは会いたいね、と言いだすやつは必ずいるものであり、今回もその埒外ではなかった。まあ、会うのはいいのだが、すえ吉が互いの推しである坂道シリーズの握手会で会いたいと以前から言っていたことを俺は、危惧していたのだ。会うとなると握手会でとなるに決まっていると。
   根っからの在宅である俺は、ああいった人が沢山集まるところは生理的にだめなのだ。直近では、外国人ミュージシャンのフィルムコンサートを観に行ったことを思い出すが、ひどい時には蕁麻疹が出ることもあった。
    ナオキはどうなのかというと、可もなく不可もなく、どっちでもいいようだったが、特段、会うことに積極的ではないようだったようには思う。
   とにかくこの時点までは、俺らはとても仲が良かったといっても差し支えないだろう。だが、末吉のある話をきっかけにして、なにやら3人の仲はぎくしゃくしていくのだった。


†3


    その日は、末吉ははじめから彼らしくなかった。なにやら機嫌が悪そうで、自分の好きな写真家であるアンセル・アダムスのことを唐突に話しはじめた。
    彼の偉大さを讃えることを独り言のように言いながら、自分のその言葉に酔っているようでもあった。つまり、アンセル・アダムスの写真家としての仕事の功績と偉大さを褒め称えつつ、実のところ、それは、彼の素晴らしさが理解できる自分が秀でているからこそなのだと言外に言っているようなのだ。
   俺は、そんな末吉の様子にたぶん素面ではないのだろうと思っていた。大方、好きなビールでも何杯も呷ったあとなのだろうと。概して気の小さい人は、酒が入ると人が変わったように大言壮語するものだ。
   末吉の豹変と言っては少々大げさにすぎるが、その普段では見せることのない、ふきだしのなかに埋まっていくテキストの字面からは高圧的な物言いが感じられ、逆に彼が気の小さい人であったのかと思わされたのだった。
   ナオキと俺は、とにかく聞き役に徹していたわけだが、まさに、ヨッパが管を巻いているという図そのもののチャットが楽しいわけもなく、早く落ちたかったのだが、それを末吉は知ってか知らずでか暇乞いするチャンスを与えることのないよう、滔々とまくしたてつづけていた。
    だが、やがて末吉がもうひとりの好きな写真家であるらしいメリル・ストリープのことは次回に譲ると言い終えた後で、意外なことを話はじめたので、落ちることも忘れてしまった。


†4


    末吉は、まあだいぶ以前からいわゆるアイドルヲタで、たしかに一般の子とは比べ物にならないほどの美少女たちをたくさん見てきたらしい。
    この世には、神から信じられないような美を与えられた少女たちが確かに存在していて、見つけられるのを待っているのだと末吉は言った。
    そして、自分の崇拝する女神を見つけたヲタたちは、女神に群がり至上の愛を彼女に注ぎ込み、そのことにより自分を光に浴せしむるのだ。
   ヲタ自身は、そんなどうでもいい理屈はどうでもよくて、自分が幸せになる方法を誰に学ぶこともなく、知っている。
   問題は、愛なのだ。この世界には、幸福になるための絶対的な法則が存在している。そしてヲタどもは、それを本能的に知っている。 
    いわゆる現場で、ヲタが気が触れたように沸くのは、崇拝者への穢れなき透徹した祈りであり、それは、まさに愛の発露以外の何物でもない。
    だが、と末吉はつづける。
    自分が気持ちよくなる方法、幸せな気分になるやり方を自然に知っているヲタは、しかし、その至上の愛とも言うべき信仰/崇拝の対象を何らかの理由により失った場合、対象を差し替えることによって事なきを得ることが可能である。
    つまり、いわゆる推し変する過程には、それ相応の苦悩なり苦痛が伴うだろうが、たとえば今までの崇拝する対象が、何らかのスキャンダルで潰れてしまい、卒業に追い込まれたとしても、衝撃を受けることは確実だろうが、血を流すような苦しみは味わうことなく、さらりと推し変することが可能となっている。
   推しが急遽卒業することになり、ショックで自殺を図った、というニャースはあまり聞いたことはない。信じていたのにまんまと騙されたという思いは強いだろうが、そんな優柔不断な相手のために自死することを考えるのではなく、先ずは自分が生きなくてはならないのだから、そのためには愛する対象は、いくらでも探せばいるのだし気持ちを切り替えるしかない。
   それは、よくわかるとすえ吉はいう。ほんとうの神様ではない、生身の人間であるアイドルにはどうしたって賞味期限がある。つまりは推しの卒業を乗り越えていかなくてはならない事態に必ず直面することだろう。
   しかし、だ。とすえ吉。
   痛みを感じていないとは言わない。言わないが、あまりにもホイホイ推し変してはいないだろうか。筋金入りのヲタは、ちがうだろう。
   推しが卒業してしまった以上、応援のしようもないのだが、それはちがうとすえ吉は言うのだ。我が身可愛さの、ただの保身だけのヲタ活に疑問を持ち始めていたらしい。
   きのうまで神とまで崇めていた推しが、居なくなった途端に自分はもうこれ以上悩み苦しみしたくはないから、愛する対象を代替するとは、なんてご都合主義なんだろう。自分のことしか考えてはいないのではないか。
    そして、末吉は自分の考えを俺らに披歴した。
「おれなんてさ、まあ十人並み以下のツラだしさ、容姿端麗ではないけれど、推しを愛する気持ちでは誰にも負けてはいないと思うわけだよ。
   結婚ていうのは、相手の人生を背負うってことだろ? 俺は、もちろん何がなんでも彼女を幸せにしたい。いや、絶対に幸せにする自信がある。気持ちの上では...
    たださ、彼女がおれなんかと一緒になってくれるはずもないんだな、これが。これはもう100パーないといっても1ミリもまちがっちゃいない。
   じゃあさ、どうする? カッコよくもない、頭もよくないから一流大学も出ていないし、一流企業でも働けない。親が資産家でもないし、どこにでもいるただのリーマンは、アイドル好きになっちゃいけないのかよ? アイドルと結婚したいと夢見ることすら許されないのかよ?
   だからさ、おれは決めたんだ。あまりにも理不尽なのはわかっている。身勝手な言い分なのは百も承知だ。しかし、こんなおれが唯一彼女に与えてやれることは、こんな方法しかないんだよ。
   おれは、彼女に心の安寧を与えてあげるんだ。もうあれやこれや懊悩する必要はない。まだ、坂道は総選挙がない分、幸せだと思うけどな。あれは、鬼だろ? 実際の総選挙は金ばら撒けばなんとかなるからアレだけど、アイドルを数字で斬って捨てるというのはね、どうも握手といい、総選挙といい悪魔的な商法には頭が下がるな。へへへへ」

   末吉が何をやろうと考えているのか、考えたくもなかった。酒が入っているからの怨み節か。行動は伴わないここだけのただの愚痴であってほしい、そう願うばかりだった。
   まあ、何かあって荒れてるだけだろうからと、俺は愚痴の聞き役に徹するのが一番の得策と考えていたが、ナオキもそんな風で末吉に意見するようなそぶりはみせなかった。
   それからおれらは、チャットをやらなくなっていき、気まぐれにチャットをやり始めても、3人が揃うことはもうなかった。そうやっておれたちは徐々に疎遠になっていった。ただし、おれとナオキはLINEで繋がってはいたが。末吉には訳のわからない理由でLINE追加は断わられたのだ。


†5


   ひとり欠けているが、そういった経緯があった上でのオフ会なのだった。それで結局、あの日ナオキは案の定、現われなかったのだが、あの日のことはよく覚えている。
    だが、末吉にあれだけ現場で会おうぜと誘われていながら、リアルで会うことなど想定にないの一点張りだったはずの自分が、なぜまたナオキに会う気になったのか、そこらへんが自分のことながら、よくわからない。
    ナオキは、オンナヲタにちがいないと踏んでいたおれは、ナオキに会ってどうするつもりだったのか、自分でもはっきりわからないのだった。
    何かうまく言い表せない、もやもやした気持ちの正体はいったい何なのか、ナオキに会って確かめたかったのだろうか。
   そして、ナオキは約束の場所に行かなかったその埋め合わせは必ずするからとLINEを飛ばしてきた。それだけが救いだった。おれは、これからも何度すっぽかされようが、ナオキと会う約束をするだろう。
   結局会うことは叶わなくとも、それはそれでいいと思っていた。ナオキともしかしたら今度こそ会えるかもしれない、人生を投げ出してしまわない、そういう生きていくためのモチベーションがおれには必要だった。
   次の全国握手会が開かれる東京ビッグサイトには、間違いなく行くからとナオキは言った。末吉と疎遠になっていたし、リアルで話せるいいチャンスじゃないかと。
    それはそう。確かにそうなのだが、考えてみると末吉のツイッターしか知らなかった。ただ詩のSNSにたむろって互いの詩の感想欄に書込みし、知合いのような気にはなっていたが、実はまるでやつのことを知らなかった。
   


 †6



   そして、いよいよ握手会当日。
   オレは会場に向かう大井町線に乗り込むとすぐにナオキにLINEした。
「で、どうすんだよ、お互い顔知らないんだけど?」
「そうなんだよね、じゃあ自分青い服で行くから。とにかく青って覚えててよ」
「それだけ? 髪は?」
「ちょい、長めかな」
「おまえ、クソ暑いんだし、男なら坊主かモヒカンだろ? ま、それは冗談だけど、なんかほかに特徴ないの? スカート穿いてるとかさ?」
「それは、そっちでしょ、オンナヲタさん?」
「あれ? バレてたん? んなわけねーだろが! 仕方ねーな、じゃあおれは、ボロボロに破れたダメージジーンズに上はアロハでいくわ、わかりやすいやろ?」
「で、誰に並ぶ?」
「あ、それ聞いちゃう? 麻衣に決まってんやろ」
「はいはい。麻衣ちゃん一択ね。じゃ、麻衣レーンで待ってるから」
「おうよ[指でOK]

  そんなこんなで、おれたちはついにリアルで会うことになった。それもまさかの檀坂46(まゆみざか)の全握で。

  オフィスから毎日、ビッグサイトは眺められるのだが、今日はまったく別世界の恋のラビリンスに迷い込んだかのようだった。なんにしろ、握手会は初めての経験だし、年老いた驢馬のようにオロオロしている自分が憐れで仕方なかった。
   そこまで客観的に自分を見つめているのならばある程度は落ち着いているかのようだが、まったくそんなことはなかった。
   とにかく人、人、人で埋め尽くされた光景に圧倒されていた。またぞろ蕁麻疹が出なきゃいいがとか心配している自分もいて、さらには推しである麻衣ちゃんにもうすぐ会えるのだと思うと、なにか身体がばらばらになってしまうような感じがしていた。今なら手足ばらばらでシンコペバシバシのポリリズムなドラムも楽勝で叩けそうだった。

  事前に調べた通り、入場に2時間、レーンで2時間は先ず間違いなくかかりそうだった。外国に渡航したことのないおれは金属探知機をくぐるのは、ソフトバンクフレームなんちゃらのバイト以来だった。
   たしか以前はハンディタイプの金属探知機だったとか聞いていたが、あの欅坂の発煙筒が焚かれた事件から、規制が厳しくなったのかもしれなかった。

  レーンは間違いなく麻衣レーンに並んでいるはずなのだが、ナオキはどうなったのかというと、レスの気配すらない。LINEは押し黙ったまま、うんともすんともいわなかった。
   いやな予感めいたものがしないでもなかったが、今回はさすがに約束は守るだろうという根拠のない思いの方が強かった。あの嘘つきなオオカミ少年でさえも、最後にはほんとうのことをいったのだし、というのは何の慰めにもならないが。
  暇をもてあまし、ツイッターのTLを見ていると、間違いなく来ているであろう、末吉を思い出した。
   そこで末吉のツイッターを見てみる。やはり、参戦してるようだ。まさかとは思うが、尋常ではない数のヲタクの坩堝にハイになり、非日常が噴出してしまうということも充分に考えられうるのだった。
   列もだいぶ進み半分くらいは来たのではないかと思ったが、ナオキからのレスは相変わらずなく、いい加減痺れを切らしたおれは、もう爆発寸前といってもよかった。
   おれは、レイダウン投下及び遅延信管の動作により、滑らかに音もなくゆっくりと爆発していく爆弾だ。それは真綿で首を絞めるように官能的に炸裂する。
   麻衣と握手できる至福の時が目前に迫っているということは、同時にナオキにまた騙されるという卑劣な裏切り行為が現前する可能性も高くなっていくということなのだ。
   以前、ナオキにその裏切りにツッコミを入れたら、愛ある塩対応とやんわり躱されてしまった。おれには、わけがわからない。
  

†7


 とそこで、だいぶ離れたレーンで何事か起こったようだ。レーンが大きく波打ち怒号のようなわけのわからない声が飛び交うと、小競り合いが隣のレーンへ、そしてまた隣のレーンへとつぎつぎに広がっていくのがわかった。
   剥がしとヲタで殴り合いの喧嘩がはじまったとか、いや、ちがう、誰かが刃物を隠し持っていただとか、メンバーを助けようとして剥がしが刺されたとか、みんな興奮して口々に喋ってる。
   会場内は騒然となりやがて、おれの並ぶ麻衣レーンにも熱波の如くそれはやってくると、茫然と眺めていたおれたちヲタをつぎつぎと薙ぎ倒していった。
  明らかにただの喧嘩から始まった小競り合いなどではなかった。いったい全体なんなのだろう。薙ぎ倒されたヲタたちは、立ち上がると人が変わってしまったかのように、殴り合いをはじめた。    
   この光景を眼前にし愕然としたおれも一発見事に食らったが、手を出さなかった。パンチを返したらスイッチが入ってしまう。みんな、邪悪な何か大きなものにとり憑かれている。その顔つきまで変わってしまっている。
   笑顔がそこらじゅうに溢れかえっているはずの愛の全握会場が、収拾のつかない事態に陥っていた。誰にも止められない。暴力の連鎖を誰にも止められない。もうめちゃくちゃだった。
  末吉は大丈夫だったかとツイッターを見てみると、そこには「業務連絡。予定通り決行」という文字がおれを嘲笑うかのように躍っていた。

  アイドルグループの全国握手会でのその事件のニュースは、むろんすぐに日本中を駆けめぐった。
   幸いにしてアイドルには怪我はなかったものの、とにかく一般の参加者の怪我人の人数が多いため事態を重くみた当局も原因究明を急いでいるが、理由があまりにも曖昧な暴動事件として歴史に残ることだろう。
  ヲタクたちは、この事件を受けての握手の終焉を心底怖れているのは明白だった。俺たちは、推しのATMなんかじゃねー! とか言いながらもほんとうにメンバーを愛している彼らのことをおれはよく知っている。

  興奮も冷めやまぬ翌日の朝。ナオキからやっとLINEが返ってきた。国際展示場駅から会社へと向かっている時だった。
   おれはブチギレた。
「おまえとは、もう絶交する! おれ、もうきめたから。没交渉や」
すると、ナオキはこう返してきた。
「まあまあ。落ち着いてよ。たしかに、オレはあのレーンにいたよ? 並んではいなかったけどね」
「どういうことだよ? いたけど並ばなかたって、もっとましな嘘つけや」
「だって、嘘じゃないし。それに、オレきみと握手までしたんだから」
「握手!」
  オレは絶句し、その場に崩折れた。フライパンみたいに焼けただれたアスファルトの向こうで陽炎が、手招きするように揺らめいている。
   そして...

   あの時、麻衣が着ていた青の洞窟みたいな、あのたとえようもなく深い色合いの、心に突き刺さってくる青いワンピース姿が、脳裏にまざまざと蘇ってきた。






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Who Are You?

乗り換えの霞ヶ関のホームで、彼女が待っているはずだった。
私は吊革につかまりながら、深沢七郎を読んでいた。
不意に誰かが背中に被いかぶさってくる。
振り返ってみると、髪の長い若い女だ。
女は、ごめんなさいといった。
私は軽く会釈して、ふたたび『笛吹川』に没頭する。



ふと、なぜか気になって顔をあげ、周りを見廻すと、女性専用車に乗ってしまったらしく、男は私ひとりだけで、座っている人も立っている人も全ては女性ばかりだった。


でも、誰も咎めるような視線を向けてこないのが、不思議といえば不思議だった。だが、だからといって居心地の悪さは変わらず、かといって車輌を移動するのも面倒くさいので、一刻もはやく降車したかったのだけれど電車がなかなか霞ヶ関に着かないのだった。


3分間おきほどで各駅に停車してゆくはずなのに、メトロは減速することもなく走りつづける。霞ヶ関はとうに過ぎてしまったのかと心配していると、電車がやっと停まった。



霞ヶ関だった。



急いで降りて、エスカレーターを駆け上がる。
丸の内線のホームで彼女の後姿を発見し、そっと近付いてゆく。
彼女はファッション雑誌を広げ読み耽っている。
「リサ、ごめん。待った?」
彼女は振り返りざま、私の左頬を平手で打った。


「あ!!……」
「いま、なんて言った?」
「え?」
「リサじゃないでしょ、リサじゃ」
「え、あ、ごめん。誰だっけ?」
「ふざけんな。あたしもう帰る!」
「ごめんごめん。冗談だって。ほら、ちょうど電車来たしさ、乗ろ」
電車に乗り込んで空いていた席にふたりして座ると、彼女は、うってかわって笑顔でおしゃべりをはじめる。




「まだ席あいてるかな? 隅の方になっちゃたらどうしよう」
私は、だいじょうぶだよ、とか曖昧に答えながら、我ながら自分のアドリブに感心してしまう。いったい誰なんだろう、このコは?
映画かな? と憶測する。 
はっきりいって、この女性にまったく見覚えはない。
けれど、彼女が人まちがえしてるわけもないので、とにかくここは調子を合わせておくのが賢明と判断した。これが、大人というものだろう。
もしかしたら、不意に名前を思い出すかもしれないし。


「ね、きいてんの? こないだいったパスタ屋さん、おいしかったよね?」
「ああ。わるくなかったね。また行こうか」
と、そこでメールの着信音。
彼女は、しゃべりつづけてる。
相づちをうちながら、急いでメールの文面を読む。
『いつまで待たせる気? もう帰るから。バイバイ』
リサからだった……。
なるほど、やっぱりこのこはリサじゃない。

あたりまえか。


そうだ! とそこで思いついた。
「ね、ちょっとさ、ゲームしない?」
「いいわよ。どんなの?」
「じゃね、まず、おれのスマホに電話してくんない?」
「OK!」
見知らない彼女は、バッグからDocomoだろうスマホを取り出して操作しはじめた。
間を置かず、おれのポケットがブルブルと震えはじめる。
みると、カヲルと表示されていた。
だが、まだわからない。たまたま別な人物からの電話からもしれないからだ。


とりあえず、出てみる。
「もしもし。で、どうするの?」
すぐ隣から聞こえてくる生声と、電話からの声は、いっしょだ。
ふ~ん。これで名前はわかった。
「あ、ごめん。じゃ、名前と生年月日をお願いします」
「なによ、それ?」
「だから、ゲームだって」
「わかったよ。カヲル。11月22日生まれ」
「で、なに?」
「あ、ええっと。きょうの予定を教えてください」
「えっと。きょうは、アキラくんと映画を観にいきます。その後は…ナイショ」


アキラくん? アキラくんて誰だ?
私は、なにかとてつもなく不安な気持ちになった。
ま、いっか。
「あ、着いたよ。降りなきゃ」
と、カヲルに促がされるまま、メトロを降りた。

映画館は、建物の四階に入っていた。エレベーターで、4階まであがるともう長蛇の列が出来ていた。それでも、どんどん人がはけていって、20分ほどでチケットを手に入れた。
カヲル? アキラ? と、心のなかで呪文のように何度も呟きながら…でも、カヲルってば、カワイイからいいかなどと思ったり。ま、こういうのもアリかなと、優柔不断ぶりを発揮する。
何を観るのかは、会話から容易に推理できた。大きなバケットに山盛り入ったポップコーンと飲み物も買って、準備万端。おっと、トイレを忘れてた。迷子にならないように待ち合わせ場所を決めてトイレにいく。
用を済ませ、手を洗おうと、覗き込んだ鏡の中の自分に驚いた。そこには、驚愕した顔の見知らぬ男が立っていた。なんて馬鹿なことを想像するのが、自分の中でのいつものお約束。
変身願望でもあるんだろうかとも思うが深くは考えない。それにしても、記憶のどこを探ってもカヲルちゃんに見覚えはない。スマホの番号をなぜ知っていたのか、とか不透明感はあるものの、ロビーでカヲルを待つ間、なにかざわざわと胸騒ぎを覚えている自分をむしろ、楽しんでいた。ワンチャン確定か。
しかし、なかなかカヲルは戻って来ないのだった。相当混んでるらしい。
スマホにまた没頭していると、そこで肩をトントンと叩かれた。
「カヲル遅いぞ」といいながら、カヲルを振り返ると、そこにはなんとミノルがいた。
「ミノル! な、なんだよ、奇遇だな。誰と来たん? 」
ミノルは鼻で笑って「つまんない冗談やめてよ。さっいこ、始まっちゃう。ごめんね、ほんと女子トイレは混んでるからさ」
話の辻褄は確かに合っている、流れ的には。しかし、キャラ変どころじゃない。人物そのものが変わってる。カヲルはいったいどこに消えたんだ。
「ね、なにボーッとしてんの? 早くいこ」
おれは、ミノルに手を握られ引きずられるようにして、ついていく。それがやっとだった。なんとか正気を保っていたが、わけがわからないまま、さらなるラビリンスへと迷い込んでいく。

客電が落ちて、CMが始まると少し落ちついてきた。とにかく早く映画の中へと入り込みたかった。映画に没頭してしまえばもうこっちのものだ。そういえば、映画を現実逃避だと蔑む憐れなやつもいた。
そして、ありがたいことに映画はすこぶる面白かった。途中からミノルが腕を組んできた。ミノルの温もりが直接伝わってくる。
これでよかったんだとおれはしみじみ思った。ミノルなんだ。そうおれの選ぶべき相手は、ミノルにちがいない。そう思うと、嬉しさがじわじわ込み上げてくるのだった。
この想いをミノルに伝えようと思った。いや、絶対伝えなければいけない。おれにはミノルしかいないんだ。
ミノル、ミノル愛してる。映画のクライマックスで泣いているのか、ミノルを好きすぎて泣いているのか、もうわけがわからなかった。
やがて映画が終わり、客電が灯るとおれは意を決してミノルに向き直り、「ミノル」と静かに呼んだ。
ミノルは、なぜか左側の通路の方を見ていた。「ミノル」ともう一度呼ぶと、右を見れば済むはずなのに、ミノルの首は、右ではなく左へとゆっくりと動いていく。あっけにとられて見ていると、忘れもしないあのエクソシストの少女のように、ありえない角度で首が回転し、ギギギギギっと鳴る感じでおれを見た。普通ならば頚椎は完璧にねじ切れているだろう。
それはもちろん、ミノルに似せてはいるがまったくの別人だった。おれは恐怖に戦慄し、絶叫しそうだった。ミノルは、そんなおれを嘲けるようにテープの再生速度を遅くしたようなあのデスボイスで、笑った。

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