詩作に没頭しながら、最後に彼女にあったときのことが、フラッシュバックした。あのとき以来、ホノルルのれいのトンネルから、全然ジャンプできなくなってしまったのだ。
私は、あなたで、あなたは、私なのと言われたあとで見た光景。
ぼくがほんの一瞬、まさに瞬きする間にみたのは、彼女になった自分を眺めている自分だった。
戸惑いがちに微笑む、ぼくの頭上三十センチのところには、バケモノと表示されたエアタグが、まるで安っぽいラブホの「空室あり」の電飾看板みたいに、中空に貼り付いていた……ゆらゆらと陽炎のようにゆらめく亡者たちの思いの束が、うねり流れていくのを背景にしながら……。
しかし、「私は、あなたで、あなたは、私なの」というのは、どうも眉唾ではないのだろうか。そうであるならば、たしかに辻褄は合うような気もする。そして、そうでないとしたならば、彼女はいったい誰で、ぼくの前に現われたわけはなんなのかという疑問が残る。
つまりは、ぼくのなかでエルサルバドルに関連するすべての記憶が、デリートされてしまっているらしいのは、単なる記憶障害ということではなしに、あるいは、二重人格ということを指し示しているのだろうか。
ブラウスを脱ぐさまを見て、記憶が甦ったのではなく、「ブラウスを脱ぐ」というコードで、人格のスイッチが切り替わるシステムなのかもしれない。
だから、ぼくの裏側の彼女こそ、ほんとうのエルサルバドルなのか。ということは? ということは? わたしの存在を認めてほしいという、これは、彼女のサインなのだろうか?
†1
天王洲アイルの夜の回廊で、ぼくはその人にであった。ぼくは、回廊から海みたいな運河を、その夜も眺めていた。夕凪はとうに過ぎさり、鴉の翼のように黒く濡れ光る運河の底では、それがなんなのかわからないが、とてつもなく巨大な何かが、うごめいているような気がした。揺らめく波頭が線香花火のように、そこかしこで爆ぜているのは、きっとそのせいなのだ。
その人は、横顔しか窺えないけれども、まるであの鏑木清方の描いた美人画から抜け出してきたような美しい女性だった。彼女もまた、ぼくと同様に回廊の端に佇み、ここからは見えない何かを一心に見つめているのだった。
そうやって、ぼくらは小一時間近く、互いの景色を眺めていた。
深夜近く雨がぱらぱらと風に舞いはじめる頃になると、にわかに回廊の人通りは増えはじめた。
しかし、それらはどうやら有象無象の幻影のようだ。
それが、時間の堆積によるものなのか、あるいは、無作為に抽出された或る日のことなのかわからないが、かつてこの回廊を伝っていったであろう人びとの残像やら、それらの人びとの思いが幾層にも重なり合い、うねっている。
それは、モノクロームで、スローモーションになったり、像を結ばないほど速くなったかと思うと、不意にストップモーションになったりした。このような流動性を帯びた不規則な動きに対して、ぴたりと静止している彼女だけは、赤いパートカラーで背景から浮き上がり、やはり美人画から抜け出してきたのではないのかという疑惑がいや増した。
疑惑などというと、おかしいかもしれないが、つまりは、彼女は、ヒトではないかもしれないと疑念を抱いているということなのだ。いや、別段ヒトでなしでも一向に構わない。構わないのだが、そのヒトではないかもしれない、いや、たぶん間違いなくヒトではないであろう彼女を、ぼくはすでに強く意識し、愛してしまっているようなのだった。つまりは、ヒトでなし同士というわけだ。
愛は惜しみなく奪う、と誰かがいったが、ぼくは、この愛で、ヒトでなしであろう彼女への愛で、いったいなにを奪われるのだろうか。
それにしても、パートカラーとは……。彼女を見失わないように誰かが気遣ってくれているのだろうか。あるいは、ソーシャルタギングってやつだろうか。タギング? 不意に飛び出してきたそのワードに、自分でも驚いた。すると、パチパチパチと電灯が灯るようにして、さまざまなもののエアタグが、かたはしから表示されていくのだった。
タギングは、いろんな人がいろんな角度から、タグ付けするわけだから、タグの多寡によって人気の度合いの目安にもなるかもしれないのだが、あまりにも多岐にわたるカテゴリのタグを有するターゲットは、あるいは、さらに曖昧さが増すだけなのかもしれない。
そんなクリスマスみたいに賑やかなタグのツリーのなか、赤く映える彼女にタグはないのかと見てみれば、果たしてタグはあった。それも、ひとつだけ。
ぼくは、そろそろと歩を運び、彼女に近づいてゆく。いや、じっさいは、回廊の床からちょっとだけ浮かび上がってつつつーと、音もなく彼女の傍まで移動する。
そして、ぼくは見た。
彼女につけられたタグを。
彼女は、どうカテゴライズされているのかを。
†2
「バケモノ」
タグには、そう記されていた。
すると、彼女はいきなりぼくをふりかえると、こういった。
「詩人が消えてしまったの。私の大好きな詩人が。ねえ、いっしょに捜してくださらない?」
ぼくは、応えた。
「ええ、もちろん。で、手掛かりはなにかあるんですか?」
「いえ、なにも。私の大好きな詩人は、自分の作品とともに姿を眩ましてしまったの、跡形もなく」
「そうなんですか。そうなると……ちょっと……」
「もう捜してもむだなのかしら。ていうか、そっとしておいてあげたほうがいいのかしら」
「いや、待ってくださいよ。彼は、たしかに詩人なんですよね?」
「もちろん。彼は、ほんとうの意味での詩人だったわ。ニセモノばかりのこの世界で」
「だったら、探し出す手立てがありますよ、ひとつだけ」
ぼくは、彼女の気を惹きたいがために、口からでまかせをいった。実のところ、そんな詩人のことなど知ったこっちゃない。でも、彼女が、それだけ御執心な詩人なのだから、利用しない手はない。すると、ぼくの脳裏にむらむらと黒い謀りのイメジが、湧いてくるのだった。
ぼくが、そいつの身代わりになってやろう。というか、なりすますわけだが。そうして、彼女の愛を独り占めするんだ。
その日は、詩人が出入りしていたという投稿サイトを彼女に教えてもらい、ぼくは回廊を後にした。
さっそく、ぼくは、詩人になりすますべく、詩作に耽った。リアルならば無理な話だが、どうせバーチャルなんだから、たとえバケモノでもぜんぜんOK。
そして、投稿。はじめのうちは、ウソみたいにうまくいった。なんか詩情がかわりましたね、とかいわれても、なんなくかわした。みんなの目は、まちがいなく節穴だった。
だが、ぼくがニセモノであることに気づいている人物が、少なくともふたりいた。ほんものの詩人と、彼女だ。彼女は、最初からぼくをニセモノだと見抜いていたようだったが、ずっと調子を合わせているふしがあった。わかっていてだまされているふりをしている、そこには、彼女なりの思惑もあるのだろう。
ぼくが、ラッキーだったからかもしれないが、ほしい情報は、チャットでそれとなく聞くだけで、面白いように手に入った。
♪ほら、最近さ、作品ぜんぶ消しちゃったけれど、あの人、名前度忘れたけど、詩の人で人気があった……バスガス爆発さんでしたっけ?
☆ああ、それならエルサルバドルさんでしょ? でも、最近のことじゃないよ。一年くらい前かな。
♪そうそう! エルサルバドルさん。でもなんでまたぜんぶ消しちゃったんだろう?
☆そりゃ、いろいろとあるでしょう。そこには、さまざまなケースがあると思うけど、それまでの作品すべてデリートしちゃった人、知ってるだけでも、ここ二、三ヶ月でふたりいる。
♪マジすか?
そんな具合いで、ぼくは、彼の詩篇の何篇かを手に入れ、研究すべく保存していた。
そして、さらに磨きをかけてエルサルバドルになりすまし、詩を書きつづけた。
おかしなもんで、彼の詩を真似ながら、ぼくが詩作になれてくると、エルサルバドルの思考が手にとるようにとまではいかないが、多少はわかるようになってきたような気がした。
と、そこらへんまでは、実にスムーズに物事が運んでいったのだが、その一方でぼく自身は、じょじょに壊れていった。
自分が壊れていくのを認識しつつ、このままではヤバイと思いながらも、どうにもならなかった。
具体的にいうと、まあ、人格崩壊とかではなくて、それは言葉の壊れだった。
ひとそれぞれなのだろうが、ぼくの場合は、先ず「てにをは」が、めちゃくちゃになった。
ぼくは、まさかと思っていたが、あの話しはほんとうだったのだ。
それは、詩をマジにやりはじめると、いわゆる言語感覚みたいなものが、一度ぶっ壊れるという、そういう恐ろしい話だった。
深夜のチャットで、ぼくはそれを聞いた。厳密にいえば、読んだだが。ぼくは、そのとき思いっきりROMっていて、まあ話半分に聞いていた。そんなバカな話あるかよ、という程度には興味があった。参加していた連中も半信半疑であったのではないだろうか。
これを聞いたときには、百歩譲ってそれがほんとうだとしても、詩作する者すべてがそうなるわけではないだろうと思った。それに、それが起こるのは、ある程度は言語感覚が鋭い人であるにちがいなかった。
それが、なんということだろう。
災厄が、ぼく自身にふってきたのである。
めちゃくちゃになった「てにをは」は、その後なんとか修復できたものの、次には言葉自体がぶっ壊れはじめた。
言葉の持つ意味というものを無力化し、テクストを破壊してしまうことが、面白くて仕方なかった。これはいったいなんなのだろうという思いはあったものの、やめられなかった。
そしてある日、ぼくは現実に彼女が存在するかもしれないと思わざるをえない事実に遭遇する。
†3
その日もなんにも変わり映えしない休日だったので、ぼくはいつもと違う過ごし方をしようと思って、一度も利用したことのない駅で降りてみた。すると駅構内で、コンサートをやっているのか、甘い調べが聞こえてきたので、ハッとして耳をそばだてた。
ぼくは、いわゆるクラシックが好きというわけでもないのだけれど、近代に入ってからのバルトークや、アルバン・ベルクの弦楽四重奏が好きだった。ぼくは気が遠くなるほどの甘美な旋律に身悶える。音楽には、匂い立つような官能がある。そんなぼくだから自然に音のする方へと足が向いてしまったのだが、生演奏をしているわけではなかった。そこでは、絵画展が催されていて、そのBGMとして薄く構内に流されてというわけだった。ちょっぴりがっかりもしたが、なぜか少し緊張しているのは、慣れていない場所を訪れたせいだろうと、ぼくは思った。
アマチュア画家の合同展示会と大きな立て看板が出ていて、無料でもあることだし観ていくことにした。モネのような印象派風の風景画や、幻想的でエロチシズムや迷宮性といったものを感じさせる具象の細密画みたいなものもあった。ぼくは、幽玄といったものを感じさせるものが好きだが、ことに海北友松の画に触れたときには、深い感銘を覚えたものだった。
そして、ぼくは、その画の前で足をとめたのだ。
すると音楽が不意に消え、構内のさんざめきも聞こえなくなった。ぼくは背中にじっとりと汗をかいていることに気がついた。それは、なんの変哲もない画だった。さまざまな色を幾重にも塗り重ねて出来たのであろう深い黒の背景に、深紅のワンピースを着た黒髪の女性が、チェアに座り、両手に大事そうになにか赤黒いものを持って、それをを愛おしそうに眺めている絵画だった。
『夜明けのマチエール』たしかそんなタイトルだった。
一瞥して、ぼくは気がついた。この絵画のモデルとなっている女性こそ、夜の回廊のあの彼女にちがいない。
知らぬ間に聴覚が戻ってきたようで、「弦楽のためのレクイエム」が鳴っていたのをぼくは、憶えている。
なんなんだろう、この画は……。と、眼鏡を掛け直し仔細に眺めてみると、彼女が大事そうに持っていたのは、なんと男根であることがわかった。
わかってみると、ちょっと、というか、かなりひいた。でも、その画から目が離せない。ことにどうしてもソレに視線がいってしまうのをやめられなかった。これは、芸術作品なのであり、低劣なポルノグラフィーといった単に卑猥な、即物的な類いのものではないのだと、自分に言い聞かせ、周りを窺いながらもどうしても視線をペニスから離すことができなくなってしまった自分をどうすればいいのか、ぼくは、わからなくなっていた。
それほどに、その画が力を秘めているというわけでもなさそうなのに、疑問を解決したいがゆえに一生懸命顔を近づけ、これはなんだろうと観察し、それがペニスだとわかった時の衝撃がずっとぼくを捉えて放さなかった。
それは、ペニスの張り型といったものではなく、生身のペニスそのものだった。彼女は、その肉の塊を愛おしそうに見つめていた。官能的なアトモスフィアといったものは、皆無だったため、ぼくは完全な無防備だった。そこに、すっと魔物が入り込んできた、そんなことなのかもしれない。
それほど美しくもない、どこにでもいそうな見知らぬ女性がさりげなく両の掌で持っていたものは、男性のシンボルである勃起したペニスだった、ということならば、これほどの衝撃は受けなかったかもしれない。
しかし、それはあの彼女なのだ。それに全裸であるのならば、状況は、少し変わっていたかもしれない。こちらもそのつもりで見るからだが、そこで、再びある疑問が生じてきた。
それは、ペニスが勃起した状態であるということ。ペニスを有する男性が、ある種の興奮により、勃起するのはごく当然な成り行きなのかもしれないが、この絵画には、そのペニスの主たる男性が描かれてはいないのだ。
ただ単に彼女の両手の中に存在するだけのペニスを、本来のヒトのペニスと同等に見ていいのかわからないが、勃起を保持しているということは、勃起した状態のペニスを切り取ったということとしか理解できない。
勃起のシステムは、ふだん血液を排出する役目である静脈が、ペニスの根元で締まって血液を止めてしまうかららしい。それは、ペニスが人体の一部としてあるときのことであって、ペニスを根元から切り取ってしまったならば、一気に血液が流れ出し、それもたぶん滝のように流れ出し、空気を抜かれた風船のようにあっというまに萎んでしまうであろうはずなのに、なぜまたこのペニスは勃起を保っているのか。
彼女は、禍々しいほどに怒張した肉と血の塊を掌で皿を作り、そこに捧げ持つようにして勃起した男性性器のペニスのみがのっていた。画家の見事な筆致から、そこからは、ずっしりとした重量感さえ感得できた。血液がだらだらと流れ出してはいないことから、なんらかの止血が施してあるのだろうと思った。けっして精巧に作りこまれた蝋細工などではないと思った。
それで、不意に思い出したが、もしかしたらこの止血は、アロンアルファでやったのではないかと思った。実は、アロンアルファは、そういったときの用途のために開発されたのだと、なにかの本で読んだことがあった。正確にいえば、止血のためだけではなく、指などを刃物などで切り落としそうになった際に、くっつける役目も果たしてくれるらしい。歯にも使えるようだ。
そのことに気がついて、自分で驚いた。そうか、本物の勃起したペニスをゴムなどで縛ってから切り取って、用意しておいたアロンアルファをまんべんなく傷口に塗って止血したのにちがいない。
そんなことを考えながらも、ぼくはもうずいぶんと前から、自分の身体の異変に気がついていた。膝頭が合わぬほど脚が震えていた。このままでは、ほんとうにまずいと思ってこの画から逃れようとするのだが、なぜか身体が硬直したように動かない。膝を小刻みに震わせながら、ぼくは、その場を動けないのだった。
しかし、固く目を瞑り、なんとかやっと身を引き剥がすようにして、その絵画から離れ、次の絵画へと視線を移したものの、眸には、なにも映じてはいなかった。ずっと目蓋の裏には、先ほどの画の残像が焼き付いたままなのだ。
ぼくは、もう他の絵画を見る気を失うとともに、どっと疲れが出てソファにへたり込んでしまった。膝頭が合わぬほど脚が震えているという以外にも歩くのに具合が悪いことが起こっていた。あの画から、離れたら離れたで、今度は、あらぬ妄想が脳裏を駆け巡り、それに抵抗し、自分の肉欲と闘ってほとほと疲れてしまった。
小一時間ほども、そうして座っていたかもしれない。幾度となくあのペニスが鮮明に蘇り、ぼくは、戦慄を覚えた。彼女が持った鋭利な刃物が煌きながら、自分の怒張したペニスを切断していくさまが、繰り返し繰り返しまざまざと脳裏に浮びあがってくるのだ。
とにかく、あの絵画から遠くに離れなくては駄目だと本能的に覚ったぼくは、やっとの思いで、いざるようにして表へと出た。
目が眩むほどの秋の陽光に照らし出されたぼくは、なにか生き返ったような気がした。
†4
家へともどったぼくは、アクアリウムの熱帯魚たちに餌をあげると、ゆったりと寛ぐために、風呂に入った。身体を洗い清め、バスタブに浸かってはじめて、ホッと安堵の溜息をついた。落ち着きを取り戻し、あの画のことを必死に意識の外へと押し出すようにつとめたが、しばらくしてハッと思った。
もしかしたら、あのペニスは自分だけに見えていたのかもしれない。そう思った。というのも、周りの人たちも少なくともペニスを持つ女性の画に一様に驚きを禁じえなかっただろうはずなのに、あの絵画を観てざわめくようなことはまったく起こらなかったからだ。立ち止まって、しばらく眺めているような者もいなかった。みな三十秒も眺めないうちに次の画へと移っていった。
だから、もしかしたらあの画は、観る者の願望によって姿形を変えるのかもしれない。あるいは、観る者、そのものを写す鏡なのかもしれないなどと思った。
風呂から上がり、鏡のなかの自分を見て、なぜか急に老けたような気がして仕方なかった。このまま年老いていくだけの人生なんて、ほんとうにつまらないと思った。街なかで見かける普通のカップルたちが羨ましくて仕方なかった。もう一度、恋に落ちたかった。死ぬほどの大恋愛をしたかった。でも、バケモノに叶うべきもない。
年老いた母を見るにつけ、人生ってなんなのだろうと思う。医学的にいうとこの世に生れ落ちたときから、老化がはじまっているということらしい。人生を四季にたとえてみると、誕生して、ハイティーンくらいが春、二十歳から四十歳くらいが夏、四十から六十にかけて秋、そしてそれ以降が冬と大雑把にいうとこんな感じだろうか。
人生の途上において、青春のときには青春の、壮年のときには壮年の、それぞれ見合った人生観なり世界観を持つのは、やはり身体的なものにかなり影響を受けているのだと思う。だから、いつまでも十代のときのような若々しい身体/容姿であるならば、精神的なものもさほど成長しないと思うし、老いというものを忌み嫌うというのは、ちょっとちがうのではないかと思いはするのだが、誰しもが歳はとりたくないと思い、ことに女性にいたっては、「老い」が、人生最大の敵ということになる。
人は壮年期ならば壮年期の、老年期ならば老年期ならではの世界観を持つわけであり、それはそれで味わうに足ることだろうが、そんな風にはまだまだ悟りたくはなかった。
†5
長い夏がやっと終わりを告げ、金木犀が香りはじめた或る夜、ぼくは、二十四時すぎに回廊に出かけた。
実は、Googleストリートビューが好きなぼくは、たまたまホノルルを散歩していて、偶然それを発見したのだ。ビューポイントでないところには、PHOTOだけがアップされていているのだが、そのなかの一枚のトンネルの写真にほんの気まぐれで、あのヒト型のカーソル? をドラッグしたところ、世界は一挙に暗転したあと、着いたところは、天王洲アイルの回廊だったというわけだった。
回廊には、すでに彼女がいて、また暗い運河を眺めていた。
ぼくも彼女と柱ひとつ隔てたいつもの場所に佇みながら、ぼーっと黒い運河を眺めた。すると、運河の向う岸からだろうか、なにやら祭り囃子の笛のような、華やいだ雰囲気があるが、どこか哀しげな旋律が聞こえてきた。こんな笛の音を、たしか佃大橋の近くで聞いたことがあった。
あのときは、川面を渡ってくる風に乗って聞こえる笛の音を追って、ふらふらと河川敷を彷徨ったのだ。そぞろ歩きながら、何組もの幸せそうなカップルや、家族連れとすれちがった。そして、ぼくらは同じ時間線を歩みながらも、決して交わることはないのだと思った。
笛の音に導かれるようにして、やがてぼくは佃大橋のたもと付近にまでやってきた。海がもうすぐそこにあるから、カモメが幾羽も飛び交っていた。そして、ぼくはなにを思ったのか、バッグからパンを取り出して千切り、カモメたちに投げ与えてみたのだった。
すると、どこにいたのかと思われるほどのカモメたちが何十羽と現われるや、千切ったパンは、一度としてきれいな放物線を描きながら海へと落ちてしまうことなく、すべて彼らの嘴に咥えられていくのだった。
あのとき、カモメたちは、翼を見事に繰って空中に静止しているかのように見えた。
そして、ぼくはいま、黒い運河を眺めながら記憶喪失のドラマのことを想い出していた。
それは、元妻が、記憶喪失となった元主人になんとかして失ってしまった記憶を取り戻させようとする物語だった。元妻は、過去の想い出を語りつぎながら、記憶を回復させようと努めるのだが、一向に埒があかなかった。
ある日、妻は、不意に「もう、若くないし昔とはちがいます」といいながら、元主人の目の前でブラウスを脱ぎはじめる。すると、元主人は、妻の名を思い出し、その名を呼ぶのだった。
というわけで、この人は、完全に奥さんとして彼女を再認知したわけであって、結果じょじょに記憶を取り戻していくのだが、乳房を見て思い出すのならば、まあ、納得しないでもないが、ブラを着けたままでなぜまた記憶が甦るのかが不思議だった。
眼前でブラウスを脱ぐという行為に妻に対する強い印象が纏わりついていた、強烈な思い出が付加されていた、ということならば、あり得るかもしれないが、やはりドラマにするのならば、そういったパブロフの犬的な条件反射を喚起するための何らかの伏線を張っておかないと、リアルさは生じてこないと思った。なぜまた、ブラウスを眼前で脱ぐことが、自分の妻という個人を特定させる要因となったのか。
結局のところ、半裸になったのであるから、半裸になったら見える部位のホクロによって、妻であるという記憶が甦ってきたといいたいのだろうとは、思う。もしくは刺青はありえないとしても、アザのようなものによって、ということなのだろうか。
しかし、それを具体的に説明はしないのである。
「ああ、このアザは!」であるとか、「この大きなホクロは!」などといった台詞は、いっさいない。
このように観るものに判断を委ねているようなところが、ちょっとと思ったのだが、どうやら、真実は異なるようなのだ。
つまり、監督は、男の前で平然と服を脱ぎはじめる女性というものは、妻でしかありえないだろう、ということをいいたいのだと思った。
しかし、それは奇麗事の幻想ではないのか。玄人女も、あるいは奥さん意外の普通の女性でも房事のときには、男の前で平然としながら、衣服を脱ぎはじめるのだから。
が、監督は、さらにこういうだろう。男の前で平然とブラウスを脱ぎはじめる女性というものは、妻でしかありえない、否、絶対にそうあるべきなのだ、と。
だが、そういったこうあるべきであるとの個人的な貞操観とリアリティは、相容れないものがあるだろうと思うのだった。
ただ確かに夫婦の絆とは、斯様に強いものなのである、とぼくも信じたい。
このシーンの最後のカットは、奥さんの名を思い出した旦那さんに、半裸の奥さんが擦り寄って手をつなぎ、奥さんは嬉しさのあまり、泣き崩れるというカットだった。
「ねえ、あなた、なにぶつぶついってるの? さっきからずっと独り言いってるわよ。自分じゃ、気づいてないでしょ?」と、だしぬけに彼女がいう。
ぼくは、驚いてしまう。
「え! そうなんですか。ぼくは、キーボード打ってませんよ、ぜんぜん。だとしたら、ちょっと怖くもありますね、これ。思いが、そのまま思考する早さで文字になっていくなんて」
「まあね」
「あなたのこころも、これで読み取れたらいいんですけど。なんて……」
暫しの沈黙のあと、
「OK、じゃあ、ほんとうのことを教えてあげる」と、彼女は、話しはじめた。
彼女が、タッチタイプしているのか、思考がそのままテキスト化されているのかは、わからない。
「実は、あなたこそ、私の捜していた詩人なの。わかってる。あなたは、詩人になりすましたつもりでいるんでしょうけど、まさにあなたが、その詩人本人なんだから、誰もあなたを疑ったりしないわよ」
「え! そういわれてもピントこないんですけど。どういうこと? ぼくが、詩人本人? ぼくがほんもののエルサルバドルさん?」
しかし、ぼくは、エルサルバドルなんて名で、詩を投稿したことなんてないし、そもそも詩作なんてしたこともない。高校の頃なら書いた記憶もあるが。でも、それが真実だとしたならば、自分で、自分になりすましていた、というどうにも笑えない喜劇なのだった。
「でもまたなぜ、あなたはぼくに接触してきたのでしょう? あなた、ぼくを特定してきたのですよね? いったい、あなたの目的はなんなのですか?」
「目的? まだ、わからないの? あなたは、わたしで、私は、あなたなの。私は、もうひとりのあなたなのよ。だから、あなたのいくところには、私もいるってわけ。当たり前の話でしょ? あなたは、とにかく周りに天才だとか囃し立てられて、傲慢になってたのよ。それで詩がだんだん腐ってきたの。慢心が腐臭を放つようになってきたってわけ。もうみていられなかった。だから、すべて消してやったのよ。一からやり直してほしかったの」
わけがわからなかった。
どこまでがほんとうで、どこからウソなのか。どこまでがウソで、どこからほんとうなのか。
「そうだ。あなたに聞きたかったことがあるんです。単刀直入に聞いていいでしょうか」
「どうぞ。わたしでわかることなら、なんなりと」
「ありがとうございます。じゃ、とっても不躾な質問で恐縮なんですが……あなたは……どうして……その……」
「バケモノと呼ばれているのか、でしょ?」
「あ、はい」
「それは。みんなと同じではないからよ」
「ぼくには、まったくフツーに見えますけど?」
「外見ではないの」
「じゃあ、なにが?」
「ほんとうのことしか言わないからじゃないかしら。みんなウソで塗り固めているのよね。ていうか、自分がウソをついているかどうかすら、わからない、ウソをつくことが当たり前だから。そもそも存在の基盤にウソがあるんだろうから、仕方ないけど、その自分のウソに気づかない方が、しあわせなのかもね。なあんて、あたしは思わないのよ。どうせ、いつかは精算しなくちゃならないのなら、早い方がいいでしょ?」
なにか、うまく受け流されてしまった。というか、わけがわからない。
あいつは、詩の素養のありそうなやつを見つけると、詩作をガンガンやらさせて、言葉を破壊させ、あげくの果てには、性の虜にして廃人同様にしてしまうらしい。ターゲットは、若い男だけで、女性は歯牙にもかけないようだ。そんな噂が、まことしやかにネット上で囁かれ、あるいは、つぶやかれていた。
あいつとは、むろん彼女のことだろう。
たしかに不思議だった。詩人の大ファンである彼女が、一遍の詩も保存してなかったとは。あるいは、ハナからでたらめだったのか。ぼくは、ただ踊らされただけなのかと思った。
彼女は、ぼくのことを知っていたのか?
だから、パートカラーを施したのか?
あの赤は、化けものの危険度を表わしていたわけではなかったのか。
そんな詩人など、はじめから存在しなかった?
チャットでは、彼女の息がかかったやつが、詩人の話題を振るやつ、つまり、ぼくを待ち伏せしていた?
しかし、なぜ?
なぜまた、彼女は、そんな手の込んだことをしたのだろう。
「私は、あなたで、あなたは、私なの」とは、なにかの符牒なのか?
そして……、あの画!
あれは、いったいなんだろう。
ぼくと彼女の未来を暗示しているとでもいうのだろうか。
ネットに転がっているエロい動画などを見ると、必ずといっていいほど、先ず男性の屹立したペニスを女性にしゃぶらせるといった映像が執拗に垂れ流されるのだが、あれは、男の幻想にすぎない。
つまり、男が女を支配しているという幻想。そのありもしない現実をことさら描くことは、女を支配下に置きたいという男の儚い願望の顕われなのだ。支配権を奪い返そうとする世界への働きかけなのであり、女は男の支配下にあるとの刷り込みなのだ。
鑑みるに、あれほどの無防備なものもないのではないか。いちばん大切な急所を、それも剥き出しで女性に委ねているわけなのだから。
あの画は、そんなことを示唆しているのではないだろうか。その気にさえなれば、骨のない陰茎など、いとも簡単に食い千切れるはずなのだ。おまえの急所は私が握っているぞという、彼女の意思表示と警告。そんな気がするのだった。
つまり、当たり前の話だが、彼女があの画から抜け出てきたわけではなく、あの画を見た彼女は、それを示唆するべく容貌を似せて、あの画を利用しただけだろう。
では、とぼくは考える。
では、あの彼女というアバターを操っているリアルな人物は誰なのだろうか。
思い当たる女性は、何人かいる。
が、そんなことは、思考の遊戯にすぎないだろう。ほんとうのところ、きっと彼女は、さまざまな思いの集合体なのだ。つまりは、彼女は幻なのではないか。「思い」が彼女という幻をつくった。
それがなんであるのか、ぼくにも説明がつかない。しかし。「思い」というものは、目に見えないだけで相当に怖いものなのだ。いい方に転がれば、素晴らしいものであるにはちがいないのだが。
その思いの集合体である彼女は、ぼくになにをいいたかったのか。
たぶん、彼女は、なにかを告げにきたのではないだろうか。
美人は三日で飽き、ブスは三日でなれるというが、この美人さんにも少し飽きたなあと、夢のなかに彼女が出てきたときにそう思った。
みんなウソで塗り固めているのよね、と彼女はいうが、ご自分はどうなのだろう。すると、その思いが伝わったのか、ちょっぴり彼女の雰囲気が変わったような気がした。ぼくは、ためしにチェンジとつぶやいてみる。
すると、案の定、彼女の首から上だけが、すげ変わった。
面白いから、チェンジ、チェンジと繰り返すと、次々と顔がすげ変わっていく。
あーあ、こんな世界はだめだ、だめなんだ。自分の思い通りになる世界なんて。
すると、フッと彼女の姿が見えなくなった。しかし、消えたのは彼女ではなかった。自分だった。つまり、ぼくが彼女になっていたのだ。
この彼女と一体化する、みたいなイメージが繰り返しでてくるけれども、繰り返しとは強調なのだから、やはり彼女のいう通り、ぼくと彼女は、一対のものなのだろうか。
と、そこは、すでに夜の回廊ではなく、沼地なのか、そこかしこに大きな水溜り状のものがあり、空と雲が、鏡のような水面に映えて、地面に嵌めこまれたステンドグラスのように煌いていた。
ぼくの傍らには、毛並みのきれいなシルバーの大きなアフガンハウンドが両足をきちんと揃えてすわっていた。たぶん、それはまだ早い朝で、朝靄が谷間からゆっくりと昇ってきながら大気に拡散していくのを、ぼくは眺めた。
首をめぐらせると、たおやかなカーヴを描きながら幾重にも重なる稜線が幾筋も見えた。それは、まるで墨絵の世界のようで、奥へ奥へと山並みの色合いは淡くなっていく。
そんな、なんともいえない厳かな眺めに、ぼくは、うっとりと見入ってしまうのだった。
ふと気づくと、彼女は完全にぼくと乖離して中空にひとり浮かんでいる。
彼女は、笑っていた。
それが、じょじょに哄笑へとかわっていく。
高笑いをあげる彼女の口が、耳元まで裂けたかに見えた。
「じゃあ、真実を教えてあげる。あなたが、あの絵を描いたのよ。あなたは、あの投稿サイトで、ある女性に恋をした。燃え上がるような恋だった。でも、彼女は、不意にあなたの前から姿を消した。あなたはどうしても、リアルで会いたいといい、彼女は、絶対にそれはできないと言い張った、それがそもそもの原因。それでも、あきらめきれなかったあなたは、手をつくしてリアルの彼女の居場所をつきとめた。そして、あなたは、彼女がどうして絶対に会わなかったのかを知った。あなたに、そのときの彼女の絶望の深さが少しでもわかるかしら? そして、彼女は自らの命を絶った。そうよ、あなたが、あなたが、殺したのよ。身勝手なあなたが。それから、あなたも何度も死のうとした。でも、あなたは死ねなかった。だから、記憶障害になった。彼女の記憶をすべて消すために。生きるために。精神の患いが治ったときには、彼女に関連するすべての記憶は消えていた。
そういうこと。でも、彼女はあなたのことを怨んでなんていないと思うわ。いえ、むしろ応援してる。あなたには、少なからずファンがいたのよ。あなたには、その人たちのためにも詩作をつづけてほしいの。こころを揺さぶるような詩が、あなたには書けるはずなの。だから、絶対に詩をやめないと約束してちょうだい」
†6
その男は、物言わぬ壁に向かって、日がな一日何事がしゃべりつづけていた。しゃべっているその声は聞こえはするが、何を言っているのか理解しがたかった。言葉の端端しか聞こえてこなかったからだが、ある日、その男に仲間ができた。
新人のそいつは、その男が詩人か、偉大なる預言者であるとの認識があるらしく、壁に向かって矢継ぎ早に放たれる男の言葉を、必死になって大学ノートにメモっていた。ラジカセにでも録音すりゃ簡単だろうにと思うのだったが、天才の御言葉を筆記することに意義があるのかもしれない。まさに迷コンビといったところだ。
ぼくは高みの見物よろしく彼らを四階の部屋から眺めているわけなのだが、きょうもまたふたりは律儀に自分たちの仕事をこなしている。そんなふたりを眺めているぼくも相当な暇人なわけなのであり、頬杖をつき、あるいはタバコを燻らせながら、いつもと同じ光景の一部となりきるアンニュイな午後のひとときが、たまらなくいとおしく思えた。
しかし、ある日を境に彼らは、忽然と消えてしまうのだった。
ぼくは、ソファに座りオニツカタイガーの虎の顔が大きくプリントされた唐草模様のバッグを開いて、読み止しの文庫本を取り出す。
ジュリアン・ソレルとレナール婦人の物語。読みながら、向かいのキッチンの窓で矩形に切り取られた清掃工場の巨大な煙突やら、地平線に白く霞む石油コンビナートを目を細めてちらちらと窺い見る。
海が青いのは、空が青いからだというが、哀しみが滲んでいるような東京の灰色の空は、やっぱり鉛色の街が反射しているからなのだろうか。
そして、きょうもぼくは、エルサルバドルになりきって、詩作に耽けってゆく。
雨音に風が揺れ
後れ毛がしんなりと香り立つ頃
光りの器は罅割れた
鉄の味がするという
古の昔より言い伝えられてきた
鳥の鎖骨の灰占い
あるべきところにある性器のよう
存在とは時間
大地は揺れ動き
舞い上がる炎の飛沫
気付くと眸のなかにあなたはいない
もっと燃えろ
白い雨が燃え上がる
光りが笑ってる
叫んでいる影
命ある限り
ああわかるという
その気持ち
あるべきところにない器官
ゼロの行進
夢を放ちつつ飛翔する
天使の目尻からこぼれおちる涙
嬲る者と嬲られる者の設定
鉄の味のする口蓋に
ノウゼンカヅラ
いったい誰が感ずるのか
あなたはいない